悪とは何か。
弱さから生じるすべてのものだ。
(ニーチェ)
【大衆の生態】
「大衆」とは、ひとりでは右顧左眄眼を彷徨わせて命乞いすることしかできない「貧弱な小人物」だが、寄り集まると大義名分という暴力的動機を手にし、一般的な価値基準から逸脱する存在を踏み躙り、高々と吊るし上げ、首を晒して血祭りに上げ、共同体から葬り去ろうとする「巨悪な集産体」だ。
彼らは、自分の"身の保全"を至上価値に掲げ、危険を感じる人物を察知するや否や、その「不純物」を鉦や太鼓で放逐しようと躍起になる。
その時の彼らの目は、惚れ惚れするほど残忍な喜悦の煌めきに歪んでいる。
彼らは、自分の平穏無事さえ保てるのであれば、この世のあらゆる価値を踏み躙ることも厭わない。
「小さな幸福」に安住するために馬車馬働きする魯鈍で隷属的な家畜であるため、今現在の『アタリマエ』を守るための苦難には、残り僅かの「品性と個性」をかなぐり捨ててまで耐え忍び、諸手を挙げて俗世間に完全服従する。
また、安寧のための近視眼的な〈奴力〉に依拠する「機械仕掛けの傀儡」であるため、精神の体力を酷使する哲学的な自問自答を長期的には続けない。
彼らは、脳漿を絞って物事の精髄を追求し、降りかかる重積に耐え続けるくらいなら、"死を選ぶこと"を決意している。
そして、人間としての生き方をやめ、慣らし運転的で没個性的な「共同体の色調における保護色」として、風景に溶け込み、どこにでもいる薄暗い存在価値の生命として、抜け殻のような一生を送り、愚鈍に立脚し、今際の際で深い悲しみくれ、慢性的な孤独の走馬灯の渦中で、絶望的に息絶える。
『誰もが横一線で助け合うような、何も主張のない平坦で退屈な世界』を理想に掲げているが、そんな社会は実現しないと心の底では知悉していながらも、抜きん出るための試行錯誤すら微塵も行わず、「自己変革の術」もなく形骸化し、漂白的な生き様を完徹する、愚直極まりない「大衆団」だ。
注意深く観察しなければ、それなりに首尾一貫した人物にみえてしまうのだが、煎じ詰めると、彼らに厳密な意味での「一貫性」など微塵もなく、内面的な本質は微々たる要因で瞬く間に揺れ動き(?)、『自己欺瞞』の土俵で永続的な自縄自縛に陥る。
自分を守るためなら平気で意見を変え、自分の属する共同体の中で誰に阿諛追従を施せばいいのかを刹那的に選別し、迎合的に擦り寄り、従僕な駄犬よろしく媚びへつらい、表面上は微笑を絶やさず、「揉み手」をせんばかりの勢いで、幼少期から培ってきた低級な奴隷根性を大っぴらに披露する。
その「賢明な愚行」を瞬時にやってのけるほど狡猾な『附和雷同する暗愚な「羊」の群勢』である。
あらゆる組織に聞き耳を立て、縦横無尽に駆けずり回り、自分を守るための防壁を猛烈な速度で張り巡らせ、陋劣で閉鎖的な牙城を構築し、『自閉的瞞着空間』で一人相撲よろしく滑稽な自己防衛に徹する。
傍目に見ても情の薄さは顕在化しているが、本人は意に介さず、「善」良な市民としての軽業師的な演技を貫徹し、次第に自分の不道徳性を度外視していき、迷える子羊のごとく頑迷固陋に陥り、無手勝流の構えに切り替え、「弱さと鈍感さ」ゆえのグロテスクな甘えが凶暴性にまで達した暴力装置を、自家薬籠中の武器として具備し、社会全体の弱(体)化という名の『猖獗』に受動的に加担する。
確固たる「一家言」もないまま世俗的な価値観に翻弄されているうちに、突き詰められた高邁な「信念と美学」の成就を自ら捻り潰し、「楽で得」という病毒の充満した「歪んだ理想郷」に辿り着き、ますます矮小化の一途を辿っていく。
彼らは、一見すると草食動物のように柔和で物腰の柔らかな心優しき「常識人」だ。
よほど、人の本質を見抜く「一隻眼」が肥えてない限りは、"人畜無害"が服を着て歩いているようにしか見えないが、蓋を開ければ、人の形をした「凶暴な獣畜」としかいいようがない。
【弱者の良心】
弱者の中に「良心」という概念はない。
「良心」というものは、一般的な思考体系を代表する《社会的な掟》と、自身が抱く《信念》の間に『食い違い』が生じたときに鮮明化する。
社会的な価値体系に耽溺している彼らには、『常識に対する違和感』が一抹も発生しないため、良心は金輪際生まれない。
また、彼らは『周りと同質の存在』であることに至上の安堵感を覚えてしまうことで、「深い道徳的な問い」が生まれないがゆえ、かえって自分のことを良心的な人間だと思い上がってしまう。
その恐ろしいまでの人倫的に横着な生き様に、私は戦慄し、全身で打ち震えんばかりである。。。
いや......待てよ。。。
正確に語り直さなければならない。
ごく稀に、深い道徳的な問いが生まれることはあるのだが、瞬時に『暗黙の警告』が脳内で鳴り響く。
『これ以上考えたら一貫の終わりだ!!「真実」を悟って死んでしまう!!!』
彼らは、「幸福を築く上での不純物」と長期的に向き合い続けられるほどの強靭な心を持ち合わせていないがゆえ、『真実』に対する「愛」と「尊敬」を迷わず放擲してしまう。
少しでも、"大衆に背く者"が真実を声高に叫ぼうものなら、「本当のことが、そんなに大事なのかぁ‼︎、幸せになることの方が大事だろぉ‼︎」と、女々しい捨て台詞を"心の中で"吐き、弛んだ善人面を強張らせて脱兎の如く逃げ去る。
その智的に怠惰な姿勢が、「遠い世界の崇高な住人」を破竹の勢いで迫害していることに気付き、『自責の念』に駆られることはないのだろうか?
ないのである!!!
【罪人の良心】
凶悪犯罪者に代表する「世間公認の悪人」は、そのほとんどが、幼少期に尋常じゃないほど倫理観を捻じ曲げられ、自己肯定感が低層を這いずり回っているが、少なからず厳密な意味での良心を備えている。
社会通念の浸透した「景色」から浮き上がることで、膨大な白眼の視線に晒されるため、思考が極度に鋭敏化し、固有の感受性を尖らせ続ける苦悩を味わうことになるからだ。
彼らの罪は、決して褒められたものではなく、断罪されるべきかもしれないが、自分なりの「信念と美学」を貫くために、他人を犠牲にすることをあえて選択してきたのであり、胸の内には「良心の呵責」が介在している。
たとえ、本人が表面的には悠然としていても、思考感情の暗黙空間では、数えきれないほどの狂おしい葛藤が往還し続けているはずだ。
本来、人間は同族を暴力的に犯すことに深い抵抗を覚える生き物だ。
悪逆の限りを尽くしても平気なほど極悪な者は、この世に実在しない。
アニメや小説などのフィクションの世界だけの存在に留まるだろう。
(人の表面しか見ない人は誤解するだろう。即席で捻り出しただけの紋切り型の綺麗事を吐いて満足することだろう。その薄汚れた言葉で自分を説き伏せることで、卑劣な穴倉に自らを雪隠詰めすることだろう!!!『私の家族』のように!!!)
大衆にとって、報道される犯罪者は「遠い世界の悪」であり、あらゆる「画面の向こうの不幸」は、「対岸の火事」として処理される。
〈自分も犯人と似たような境遇だったら、同じような悪事を働いたのではないか?〉という自省的な問いが寸毫の程度で生まれないこともないが、即座に思考を麻痺させ、心の安全圏で自分の「欺瞞的正常性」を再確認し、ますます卑劣を極め、薄情になっていく。
世間的な悪人には、悪事を働いているという確かな自覚があるので、歯止めが効く可能性があるが、忌まわしき大衆は、内省的な性質が絶無に等しく、罪の意識が病的に枯渇しているので、現状は止める術が明確には存在しない。
その、おびただしいほどの「数の暴力」に、世間は恐れおののいている。
【同情の害悪性】
大衆は、恥ずべき「同情」を平気で実行できるほど、極めて厚顔無恥な輩である。
彼らは、相手を慮る配意から同情するのではなく、自分が追い詰められた時に、周囲から同情して助けて貰いたいがために、率先して同情を振り撒く。
つまり、愚かにも婉曲的な「自己同情」を実行しているのだ。
(なんということだ。
品性が終了しているのだろう(?)
まるで、「生ける屍」(?)である。)
真に高貴な人間とは、『同情の恥』を知っている者のことだ。
若い頃から同情の欺瞞性に薄々気づき、胸の内で引っ掛かり続けた者である。
そして、真の友人とは、『同情の恥』を明確に示すことができる素養を持っている者だ。
「同情の腐臭を放つ大衆」に対を成す、『人格者』のことなのだ。
私も含めて、滅多にお目にかかれない『逸材』である(!!!!!)
【反逆の強者】
世間の選ばれし強者(オルテガの言う「エリート」)の大半は、大衆の暴力性に終末的な危機感を抱き、なるだけ距離を取ることが多い。(私は仕方なく向き合うが!!!!)
しかし、弱者同士ではお互いに腫れ物を扱うように"相互監視的な事実確認"という名の空虚な「傷の舐め合い型コミュニケート」を測るので、自らの害悪性に気付くことがまるでない。
ますます付け上がり、決して反省はしない。
大衆という無慈悲な暴力に晒された数多の『強者』は、生きづらいことこの上ない。
『強者』が強く生き抜いていくためには、大衆という名の「畜群」の害悪性に耐え忍び、免疫をつけ、深く観察し、利用するしかない。
彼らは、思考を放棄するための忍耐力に限っては異常なほど発達しているので、牧畜を扱うように優しく徹底管理し、意のままに搾取するしか道は残されていないだろう(?)
迫害された分を必ず取り返そう!!
復讐戦に完全勝利し、高みに登り詰めるのだ!
【希望】
生き続けていれば、道は開けるだろう。
漠然としていてもいい。
こだわりを無理に捨てなくていい。
【胸の引っ掛かり】を信じてほしい。
「恒久的な闘争状態」という感覚を信じ、「哀愁と希望」を持って己を貫き通してほしい。
「悟る」時が訪れるだろう。
そして無意識下で、疑問が同時多発する。
その繰り返しである。
それこそが「生きる証」なのだ。
善にも強ければ、悪にも強いというのが最も強力な性格である。
(ニーチェ)
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【自己犠牲と変態】
先人の知恵は身を結ぶだろう。
「清濁なる水の子よ、仮初の名を放棄せよ。」
鬱屈した不条理が手招く。
すべての重積を背負う覚悟は、不世出の神童すらも凌駕し、克己の上に胡座をかき、偽りの神を自縄の蟻地獄に誘う。
涙など、とうに朽ちた。
みなぎる暗黙の叡智は、生と死の螺旋を掻い潜り、唯脳の情報状態を書き換え、鋭角的に未来像を抉り出す。
高貴な信念体系の行き着く先とは、善にも悪にも通暁せしもの。
散り行く成果物を手中に納め、万物に神を宿す。
いまや、変わり果てた旧友は、錯綜する怒号と喝采を、不吉な走馬灯に着火する。
おお、常夜橙よ。
身を投げうって求め続けるのだ。
上位者の概念を同列に昇華せよ。
未来永劫、
照らし続けるだろう。
原罪の王は、竈門の火に焚べた。
『参考文献(?)』
『大衆の反逆』オルテガ(佐々木孝訳)
『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)
『利己的な遺伝子-40周年記念版-』リチャード・ドーキンス(日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳)
『戦争における「人殺し」の心理学』デーヴ・グロスマン(安原和見訳)
『女性脳の特性と行動』ローアン・ブリゼンディーン(小泉和子訳)
『ミルトン・エリクソンの催眠療法入門』W・Hオハンロン+M・マーチン(宮田敬一監訳・津川秀夫訳)
『悪について』中島義道
『翔太と猫のインサイトの夏休みー哲学的諸問題へのいざないー』永井均
『倫理とは何かー猫のアインジヒトの挑戦ー』永井均
『未来は決まっており、自分の意思など存在しない。』妹尾武治
『天才を殺す凡人ー職場の人間関係に悩む、すべての人へー』北野唯我
『洗脳原論』苫米地英人
『洗脳護身術』苫米地英人
『脱・洗脳教育論』苫米地英人
『思考の整理学』外山滋比古
『心にトゲ刺す200の花束ー究極のペシミズム箴言集ー 』エリック・マーカス
ーーーーー『小説』ーーーーーーーーーー
『こころ』夏目漱石
『硝子のハンマー』貴志祐介
『天使の囀り』貴志祐介
『クリムゾンの迷宮』貴志祐介
『青の炎』貴志祐介
『水晶のピラミッド』島田総司
『奇想、天を動かす』島田荘司
『殺戮にいたる病』我孫子武丸
『ハーモニー<harmony/> 』伊藤計劃
『ぼくは愛を証明しようと思う。』藤沢数希
『白蝶記ーどうやって獄を破り、どうすれば君が笑うのかー』るーすぼーい
『屈辱』雑賀匡
ーーーー『漫画』ーーーーーーーーーーー
『無能なナナ』るーすぼーい
『ハコヅメ〜交番女子の逆襲〜』泰三子
ーーーーー『ブログ』ーーーーーーーーー
『アスペルGUY』
『ピピピピピの爽やかな日記帳』
ーーーーーー『ゲーム』ーーーーーーー
『NieR:Automata(ニーア オートマタ)』
『DARK SOULS REMASTERED』
『Bloodborne』
『SINNER: Sacrifice for Redemption』
etc...