弱化ロープ

noteもやってます

顔を見つめることは、殺人的である。

殺人とは、「同化しようにも同化できない」という現象の一形態である。


大哲学者エマニュエル・レヴィナスは、「意味付与される意識対象は、同化されたもの」と見なし、「同」という主要概念を打ち出した。

「同」は、他者を同化する力である。しかし、「他者」とは絶対的に「他」である。故に、所有としての「同」が結実することはない。

彼の「同」は、「自我」「意識」「理性」を、理解の枠組みの中に回収する「自己主体のあり方」それ自体を指し、その範囲は、「私の働きが加わる全て」を示す。

ゆえに「同」は、行為主体としての発想であり、受動性の「客体」とは対極をなす。故に、「狩る主体と、狩られる客体」という二項対立において、必然的に、狩る者としての思想が「同」と暴力的な関係を結ぶ。

この発想は、サイコパス(先天的な反社会性パーソナリティ障害)の実態と、奇妙な形で通底する。彼らは、「周囲の他者が全て敵に見える」という思想を持ち、「搾取される前に、自分から搾取しなくてはならない」という攻撃性を内本質的に備えている。

ゆえに、そのような主体にとって他者とは、単に理解される対象ではなく、「制圧されるべき対象」として立ち現れる。

「敵を制圧する」という発想は、必然的に、「所有欲」と結びつく。それは、敵の存在に、意味を付与して掌握したいという衝動である。

故に、「ある対象」に意味を付与する営みは、能動的な行為主体によって作用する。その主体が、「意味を付与する限り」において、その対象となる客体は、「私物化されたもの」としての様相を帯びる。

故に、サイコパスの所有欲は、敵に見える他者を、「自分の理解可能で安全な所有物へ還元したい」という傾向性と、一体不可分である。

実際、サイコパスは、他者をゲームのNPCのように、オブジェクト化して認識する傾向性を持つ。それは、単なる他者への興味関心の欠如というより、敵を安全な形で処理しようとする認識フレーム故の思考様式であろう。

そして、彼らがもつ、その所有欲は、「視線」によって増強され、明確な像を結ぶ。彼らは、折りに触れて「他者の顔を凝視」する。相手に失礼な場面でも、穴が開くほど見つめる傾向を持つ。

レヴィナスは、「顔が課す要求を鎮めたい」という充足せず増大していく願望は、行き付く果てには、「殺人願望」に帰結すると述べている。本稿でいうところの「顔の課す要求」は、「喰らうべに他者の存在感」だと解釈される。

殺人の「願望」は、他者の「顔貌」を、自分の内的宇宙内で滅却したいという願望であり、殺人衝動と通底するものだ。

「同化しようにもできない他者は厄介だ。顔の要求を鎮めるという切望を充すためには、もはやこの世から葬り去るしかない。」

そして、本能が理性を超え、獣と化したサイコパスは、殺人を犯す。しかし、抑制機能の強さ故に生き残るサイコパスは、この世に潜み、他者の日常をしたたかに、侵食する。

サイコパスは、他人への共感・興味関心は基本的に希薄である。ゆえに、彼から映じる他者は、敵であると同時に利用可能なオブジェクトである。

彼にとって他者とは..........意のままに操作し、安全形へ還元し、快適に生存するための生贄である。

真理とは、言葉にできないことを言葉にすることである。

大詩人ゲーテは、格言を残している。

 

「理解していないものは、所有しているとは言えない。」

(ゲーテ格言集 新潮文庫)

 

ここでいう理解とは、ある対象を内的形成へと再配置することで成る、と解釈する。では、内的精神は、いかにして各個人の資産となり得るのか。

 

そもそも自然本性の中に、共有という概念はない。全ての物質は、自然本来の所有物としての存在である。ゆえに、「理解」という精神性が、物質性を超越して結実されなければ、所有と呼ぶには値しない。

 

 

例えるならば、書物への向き合い方がこれに該当する。物質的に書物を入手することは万人に容易い。だが、それだけでは、精神面・人格面への目立った効能は見込めない。つまるところその要諦は、書物内容そのものを血肉にすること___活用可能な財産へと昇華することである。

 

つまるところ、物質を用いて、理解可能性を導くことが、知の所有へと人を導く。

 

ここで、ニーチェの至言を記す。

「しかし、あなたがたには、真理への意思がある。この真理への意志とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意志である。あなたがたは、あなたがたの感覚で掴んだものを究極まで思考しなければならないのだ。」(ツァラトゥストラはこう語った。 氷上英廣 訳 岩波文庫)

 

ゲーテが対象の形成を語るとき、静的な所有としての完成を見る。対してニーチェのいう「真理への意志」は、この生を極限まで押し広げ、未完のまま肯定し続ける衝動として立ち現れる。

 

「真理への意志」とは、つまるところ、言葉にできない感覚印象を、絶対感覚として捉え、極限まで研ぎ澄ます過程である。

 

それは、世界を「固定された客観的実体」の鋳型として捉え、理解可能な形式へと鋳造しようとする衝動である。人の数だけ開けたその感覚印象は、その者の持つ全ての真理を包摂している。その心は真理を絶対的な確度で知覚しているが、それのみでは充分に輪郭が定まらない。

 

心は、思考なしでは舞い降りず、心の内奥で拾い上げ、段階的に形作るものだ。その「思考の絶対法則」を五感に染み渡る情報状態として結実させるところに、真理という精神が確度を伴い立ち現れる。

 

こうして真理は、一つの個体を跳出し、自然の共有物たる物質をも超え、「心の極点」にて、高々と輪舞する。これこそが真理という血肉の流動体であり、揺れ続けながらも宿存する絶対的な精神資産である。

 

一番つまらない集団の特徴。

愚問とは何か。相手の「個を無効化するために設計された」全ての質問である。会話とは、相互の個の世界を断片的に引き出して、共有する営みである。ゆえに、個を削ぐ質問は、会話を活性を低下する方向へと、断続なく作用し続ける。流動性を欠く会話を望むものは少ない。誰もが、会話に熱を望んでいる。だがしかし、会話における個は、折りに触れて、衝突を誘発する。その危険性は、集団における「個の異質性」を露呈させる。群れの秩序を壊す要因は、一つの個に収束する。その非同期的な揺れが、集団を取り巻く千篇一律の風潮の中では、危険なノイズとして作用する。そもそも個を無に帰す風潮は、その集団の構成員を、最大公約数的人格へと平準化する装置である。没個性に堕ちた集団は、個の輪郭を過剰に削ぎ落とし、結果的に人畜無害な集いを形成する。個を重んずる集団であれば、その風潮は機能しない。個が活性化し、愚問に基づく「平板な事実確認」は脇に置きやられる。無害であることより、存在の密度を引き出し、起伏に富んだ会話の活性を優先させる。個が踊るように相互作用し、各々の人格に熱が帯びる。会話および質問とは、相手の個を露出させる原機能を持つ。愚問は、その機能を反転させ、個を消去する作用を持つ。愚問が愚問たる所以は、この機能に沈殿している。愚問は、相手の人格を交換可能な資源として、避けがたく扱うことになる。本来ならば、情報交換により活性化されるはずの会話は、「相手が無害である」という信号を交換するだけの、平板な儀式に堕する。彼らに悪意はない。「全員が快適であるべき」という過剰な善意が跋扈し、結果として、「全ての人が不快にならない」という退屈な風潮が醸成される。押し付けがましい善意が、個の面白みを迫害して、無の秩序性だけが肥大化した無起伏群が結晶化する。ただし、この集団の構図の批判自体もまた、個を抽象的な機能へと還元している危険を免れない。個の露出は常に過剰であり、過剰であるがゆえに、別種の衝突や疲弊を招く。ゆえに問題は単純な「個の擁護」ではなく、個が露出しうる限界と、その緊張の延長線上にある。

 

 

 

 

なぜ、女は「女優」なのか?

演技とは、主体的に客体化を試みる行為である。


女は、受動の性であり、求められるところの性である。女が主体的に男を操ろうとする場面でも、主体性に先立って客対性として魅力を発揮する。

 

仮に、女が主体的に関係を主導しようとしても、一貫した主体性ははじめから頓挫している。

 

女は「求められること」を通じてしか関係に入れない。よって主導しようとしても、その回路自体が他者の欲望を経由する。

 

たとえ、女が男を「その気にさせた」としても、求められるところの性を起点の誘惑である以上、受動性を起点とした「仮初の主体性」に過ぎない。ゆえに、女性に通底する「求められるところの」客体性は、主体的性行動においても根底から消え去ることはない。

 

女の行為は「見られること」を前提に成立する。「見られること」は他者の視線を内面化することである。自己に内在化された他者は、自分の行為を先取りして規定する。ゆえに主体は、純粋に自分発としては成立しない。その客体性を前提にする限り、それは純粋な主体としては成立しない。

 

よって、主体性は、女という立脚点を経由する限りにおいて、必然的に演技が介入したものになる。

 

客体とは、見られるところ・対象とされるところの主体であり、主客両面は表裏一体である。よって、女の性は必然的に、演技性なしに語ることはできない。

 

「演技というものは、主体的に客体化を試みる行為」であり、自他の主客両面をあえて逆転させるところに、その実効が宿る。能動的に見られるという受動的な視点を提供するものだ。

 

演技と根深い関係をもつサスペンスは、宙吊りという性質をもつ。観る者の心を宙吊りにし、見せることと隠すことのあいだに持続的な緊張を生み出す。いわばサスペンスとは、開示と隠匿のリズムを操作する技法であり、この点において演技と通底する。見られることを前提とする視点......すなわち客体性が、そこでは不可欠となる。

 

主体という観点からすると、自分自身は自分自身でしかない。しかし演技のモデルは、すでに何者かになっている。何者かとは、ステータスであり、客観的な指標である。客体性のパラメーターとしてのキャラであり、そのもの自体の主体性とは異なる。

 

見られることを前提に、性は他者のまなざしを内面化する。主体は自発ではなく、想定された視線への応答として立ち現れる。「見せる、そして隠す」、という配分が緊張を生み、その持続がサスペンスとなる。参照される像は他者のための指標にすぎず、主体はそれを引き受けて自らを客体として差し出し続ける。

 

ゆえに、女は、女優である。

なぜ、語りは、成果を殺すのか?

人間は、「語り」への衝動に甘んるほど、成果と呼びうるものは結晶化されない。

 

本稿における「語り」とは、成果物の作成に先行することなく、外部からの承認を仮初の目的として放出される言語活動を指す。すなわちそれは、制作に付随する副次行為とは異なり、制作の代替として選択される、安価な充足を指す。

 

「語り」は、創作意欲を段階的に減衰させる作用を持つ。ゆえに、創作者は、無為な発言を展開するべきではない。「語り」は、「制作」に向かう精神エネルギーを消費する。語りに費やされた精神は、無関係の外部へ集散され、しばしば軌道から外れる。

 

実際に着手し、試行錯誤するエネルギーが、本来あるべき成果物に対しては焦点化されず、「説明」「議論」「自己正当化」に密集する。それら、外在化された思考の断片は、すべて重要度の低いものとして処理され、思考の片隅へ追いやられる。

 

ついには、安直な「誉め言葉」により、疑似的な達成感に酔いしれ、自己満足へとさらに傾倒し、「語りの衝動」が再加速する。

 

「語り」とは、このようにして、制作の過程を横取りする形式で成立する。ゆえに、未完の創作と同様の、「逃避の様相」を帯びている。

 

「小規模の承認」は、それが連結性を帯びるほどに、語りの中毒化が進行し、「地道な試行錯誤」が軽視される。ゆえに、単一的な「承認サイクル」という渦地へといざなわれ、長期的達成への修練は、おざなりにされうる。このサイクルにおいては、成果物それ自体ではなく、「語りうる状態にあること」自体が価値として誤認される。

 

かくして、制作は常に未遂のまま凍結され、「語り」の残滓だけが増殖する。

 

そのうえ、安易な語りは、思考の純度を混濁させる。普段の思考過程すらも他人の評価で汚れ、思考整理が行き届かない。ゆえに、いっけん成果物が実ろうとも、満足いくものは作られず、あべこべな完成形として帰結する。他者視点が雑多に混入され、「他人の言語を自分の言語だと誤読した創作者」は、悲惨の一言に尽きる。

 

この錯覚は、創作者にとって致命的である。なぜなら、未完の段階で言語化された思考は、その瞬間に「既知のもの」として固定され、再び未知へと潜行する器量を失うからである。本来であれば深化しうるはずの萌芽は、「語り」で閉ざされ、拡張されない。

 

ゆえに、創造者にとって必要な素養は、「あえて語らない勇気」である。それは、沈黙の美徳などという、消極的態度を超克する。「語り」を中途段階のままで止める覚悟は、断言を保留にし、「未完のものを未完のまま保持し続ける」という、持続的緊張への能動的な確約である。

 

「語り」によって解消されるはずの不全感をあえて引き受け、その不快と対峙し続ける精神のみ、「制作」は臨界点へいざなわれる。

 

1を聞いて10を知ること。

洞察という言葉は、ある現象を眺め、別の解釈を付与する行為であり、その内部に推論を含んでいる。すなわち、ある事物から受ける感覚印象を、同じ根をもつ別の印象へと結びつけて解釈する知的営為である。

 

それは、情報の背景を知識として格納するために、欠かせない思考法である。さながら、知者は、少ない情報から、たちどころに理解の範囲を展開する。その所業は、「洞察」の働きとして立ち現れる。

 

あらゆる洞察が、創造的を生むわけではい。されは、既存のものを観照し、そのうちに含まれている連関を捉える行いである。ゆえに、知を等身大で捉えながらも、その内包を拡大させる。学者による偉大な研究も、洞察あっての成果である。

 

人間は誰しも、大なり小なり推論している。例えば、皮肉を解するとき、言外の意味を推論している。その推論は、基本的には、抽象的概念による反省から生まれるのではなく、感覚的印象の結びつきとして生まれる。いわば突発的に現れるが、それは無秩序な偶発ではなく、あらかじめ備わった連関把握の資質によって支えられている。

 

感覚印象を概念として引き上げる思考は、推論というより、哲学に近い。推論は、哲学において必要な過程だが、それ自体が哲学ではない。あくまで推論とは、印象のあいだに関係を見出し、それを判断として取り出す働きである。

 

洞察において、瞬間的に知が拡大する現象は、1の中に含まれる10を能動的に取り出す資質が関係している。それは、汎用的に知へと奉仕するものであり、人類にとって本質的貢献となる思考法である。

「無知の知」をどう解釈すれば、無知ではないと言えるのか?

哲学者コンディアックは、至言を吐いている。

 

「人は、無知であるほどに、判断したい欲望を抑えられないものである。」(論理学ー考える技術の初歩ー)

 

この一節は、意見すれば控えめな観察に過ぎない。しかし、その内実は、ソクラテスの「無知の知」に深く通底している。しかし、思想の中核として誇示されるわけではなく、あくまで文脈に浸透する形で表れている。

 

コンディアックは、文脈を超えて、この無知の知へとメスを切り込む。当人は当然のごとく、無知の知の実践者である。ゆえに、意図して記したものかは不明である。だが、しかし、私には、この慎ましやかな提示の仕方が、かえって露骨なまでの「至言」として映じてしまう。

 

 

それでは、その骨組みを考察する。

 

まず、人間の精神は、事物を正しく捉えられないほど、「分かったもの」として捉え、仮構の落とし穴へいざなう。「無知を充分に把握する」だけの反省を欠けば、無知であり続けるのが人間である。一般に、人は、一応の判断や解釈を加えた物事ほど、「到達した真理」として、処理される傾向性を持つからだ。

 

故に、対照として、本物の知者であれば、「無知の知」を実践する。それは、「分かったつもり」という、知の敵たる傾向性への対応である。「無知の自覚」は、知・真理追及の出発点となるという認識フレームである。

 

それは、あらゆる知的活動において、抜本的な効力を放つ。無知を検閲し、その中で知を追求するには、即席の「一言コメント」で安易に判断し、理解・把握を終えたものとする態度を、能動的に疑わなければならない。すなわち、無知へ堕する精神を、迅速に戒することが求められる。そうしてようやく、哲学実践者としての態度が、輪郭を帯びる。

 

反対に、大衆的態度は、真に理解すること、それ自体を欲しない。理解に到達したと見なしうる地点へ、速やかに着地したいにすぎない。思考とは本来、未決のまま持続する緊張状態であり、その負荷は精神にとって恒常的に耐え難い。

 

ゆえに人は、判断を保留し続けることよりも、いかに粗雑であれ、一応の解釈を付与し、事態を処理済みのものとして収めることを合理的に選択する。

 

「分かったつもり」という状態、それは理解の到達ではなく、理解完了と書かれた仮初の案内板が固定化されたに過ぎない。そこには、本来ならば「思考の停止」と刻印されるはずが、「思考の完了」と誤記入されている。

 

さらに言えば、この「分かったつもり」は、単なる誤謬にとどまらない。それは、不確実性に伴う不安を即席的に処理し、自己を安定させるための機能として作用する。人は真理を欲するのではない。真理に到達したと感じうる安定を欲するのである。

 

ゆえに、一度目の判断や解釈は、その妥当性を再び問われることなく、「処理済み」の標識を付されて保存される。かくして、思考は深化することなく堆積し、未検証の確信のみが増殖する。

 

したがって、「無知の知」とは、この安易な安定へと収斂する傾向に抗し、理解を終えたと感じたその瞬間にこそ、それを疑い、再び未決の状態へと差し戻すという、持続的な反省の営為である。

 

 

我々は、「肉体」を人質に取られている

大哲学者ショーペンハウアー曰く、世界の本質は「生きんとする盲目的な意志」と、その「表象」である。この意志は、究極的な目的を欠いた無限の努力であり、「あらゆる存在はその意志の客観化」に過ぎない。

 

我々が認識する世界は「表象」であり、それはこの意志が、時間と空間という認識形式のもとで分裂し、個体として立ち現れたものである。

 

ここで、彼の主要概念「個体化の原理」が含意に富み、本論の中核を担う。これは、本来同一であるはずの意志が、時間と空間という枠組みによって分割され、数多の個体として現象するというものである。この原理によって自他は分離され、他者は自己とは異なる存在として知覚されるに至る。

 

しかし、この分離は本質的なものではなく、主客は同質である。人間は根底において同一の意志を共有している。それにもかかわらず、個体として生きる限り欲望は絶えない。一時的に充足されたとしても、やがて容易く退屈へと転落する。生とは、この意味において持続的な苦悩である。

 

この哲理を踏まえ、性行為について考察する。「性衝動」はエゴイズムである。欲動は自我に執拗に絡みつき、個体化の原理に固着する。肉体と精神は「生」を肯定し、生きんとする意志に無我夢中で奉仕する。個体化の原理とエゴイズムは連関している。この定義に照応するならば、性行為とは、二つの異なる個体が性衝動によって一つの生きんとする意志へと結実する「境界侵犯行為」である。

 

個体化の原理は、性において一時的に破綻する装置に他ならない。その上で「性」とは、意志が「個体化という形式を、裏切る瞬間」であると、あえて解釈を再編成させる。

 

他者の身体を貫通する刹那、個体化の原理は蹂躙され、一時的に解体される。そして、意志の盲目的な「種の衝動」という野放図は、一時的に男性主体によって掌握される。女体に宿る胎児は、意志の個体が原理を超えて混然一体となった客体である。

 

ニーチェ曰く、女性は、「自らに宿る胎児」を通して、肉体の自己愛を充足させる。女の肉体へのいみじい欠乏感・複雑な反省的自我は、肉体の一部となる胎児を通して自己肯定的解釈に転じる。意思の反省という抽象的認識が、肉体を通して具象的に感得され、充足感に満たされる。

 

受胎における、意志の解釈は、受胎にのみ留まらない。人間の一般的行為である「食事」も同様である。それは、生きんとする意志の直接の客体たる身体へ、栄養を通じて奉仕する行為である。ゆえに多食もまた、性行為と同様に、生きんとする意志の通奏低音たる「エロス」への力動的な奉仕として接続され、その充足は、即時的に感得される。

 

したがって、意志の否定とは、生きようとする行為の否定であり、命への執着と欲望が生む我執による苦悩の禁圧である。自我を希薄化することは、すなわち意志を否定し、命への執着を希薄化させる実効がある。この観点において、禁圧されるべき欲は、主として性欲である。

 

淫欲を薄め、性的行動を徹底して、「禁圧する主体」こそが、意志の呪縛から解放される可能性を持ちうる。ゆえに、生(性)を肯定し欲望する限り、意志の奴隷状態から解放されるその日は、終ぞ訪れはしない。

 

 

※本論には一つ致命的な疑問が残る。ニーチェとショーペンハウアーの意志の解釈は、対立軸にある。前者は「力への意志」として肯定され、後者は「禁欲」によって否定される。したがって本論考は、両者の哲理を混合し再編したものであり、拭い難い疑義と反駁の余地を残している。一つの解釈の候補として、ご拝読いただければ、幸甚の至である。

格闘ゲームが「楽しい」は、半分”ウソ”である。

格闘ゲームとは、「楽しさ」と「苦しみ」が混然一体であるという、「固有の原理」に貫かれた、際立った異質性を放つゲームジャンルである。

コンボが決まった瞬間。勝ち星を上げた瞬間。成長を実感した瞬間。

 

別種のゲームであれば、局所的成功においても、一定の達成感が喚起される。しかし、格闘ゲームはそうではない。勝ち星を上げるための、局所的成功の達成感は、取るに足らないものとして報酬系から退けられる。

 

一つ一つの細かい成功体験の裏には、「ここで慢心していけない」「今の成功体験は大したことはない」といったストイックな思考感情によって、素早くあしらわれる。「達成」は即座に「無価値」へと還元され、自己否定感を帯びた、向上心へのカンフル剤として邁進する。技が思うように決まろうとも、勝つためのファストな戦略思考の戦線に、悠長な達成感が介入する隙間はない。

 

格闘ゲームにおいて、達成が達成として安住することはない。その理由は単純であり、かつ決定的である。それは、このジャンルが徹頭徹尾、「対人」であるという一点に尽きる。対人であることは、あらゆる成果が、他者との比較の中でしか意味を持たないということである。すなわち、そこでは絶対的な基準は剥奪され、自己完結的な充足は原理的に成立しない。どれほど精緻なコンボを決めようと、それが通用する相手の水準によって、その価値は容易に変動する。

 

ある局面での成功は、より高度な対戦環境においては、単なる初歩的所作へと格下げされる。この可変性こそが、達成を不安定化させる。加えて、格闘ゲームは、失敗体験のストレスはかえって大きい。格闘ゲームは、断片的達成の累積を前提とする行為を、いかに有効打とするかが至上命題である。ゆえに、細かい失敗によるフラストレーションは他のゲームを比して、いっそう顕著である。

 

他のゲームでも、失敗は一定の負荷を伴うが、何より、成功に「直接的な快の充足」が付随する。代表例の「ドラゴンクエスト」では、レベルアップ時に必ず放たれる、あの定式化された祝祭的音響と共に、プレイヤーは直接的で夾雑物のない「快」を勝ち得る。もちろん、自分の求めるレベルに満たないことはあるが、確かなゲーム内での成長を実感でき、過去の自分との差を可視化して成長を実感する。いわば、一時的な休息としての「純粋な快」が得られるのだ。

 

その快は、格闘ゲームでは決して得られない。格闘ゲーマーは、「休息のない相対評価の渦中」に永遠と放り投げられ、戦いを強いられるアスリートである。ドラゴンクエストが、「自己完結的な絶対的快楽性」に対し、格闘ゲームは、「未完の他者依存的快楽」となりやすい。格闘ゲーマーという文脈において、「今、ここ」に愉楽が凝縮された、児戯の遊びにも似たゲーム体験は、断じて成立し得ない。

 

とはいえ、格闘ゲームは、常に感じれる、「一定の楽しさ」の閾値は担保されている。どんなに楽しいゲームでも、煩わしい要素はあるが、格闘ゲームはその労を強いる設計が、短期間の集中の連鎖として処理される。これは、利得と損失の両面性を絶妙なバランスで内包する。故に、極端な苦痛を伴う負担は感じにくい。

 

「苦痛・徒労感」と、「快感・手軽さ」の対立項が混然一体となったゲーム設計。。。。それは、快苦両面を余すところなく同時体験できる、格闘ゲームプレイヤーの特権である。

 

エレン・イェーガーは悪人なのか?

エレン・イェーガーは悪人なのか。

 

この問いは、「地鳴らし」の実行犯という観点により、自明に解答される。すなわち、「大量虐殺を実行した主体は悪である」、という極めて常識的な判決である。

 

しかし、「悪人とは何か」なる問いを掘り進めるならば、この判断は必ずしも自明ではない。私見だが、この問題には、ショーペンハウエルの主著『意志と表象としての世界』が示唆に富む。

 

彼によれば、世界の本質は「生きんとする盲目的な意志」と、その「表象」である。この意志は究極的な目的を欠いた無限の努力であり、「あらゆる存在はその意志の客観化」に過ぎない。我々が認識する世界は「表象」であり、それはこの意志が、時間と空間という認識形式のもとで分裂化され、個体として立ち現れる。

ここで、彼の主要概念「個体化の原理」が含意に富み、主題の中核を担う。これは、本来は同一であるはずの意志が、時間と空間という枠組みによって分割され、数多の個体として現象する、というものだ。この原理によって、自他は分離され、他者は自己とは異なる存在として知覚に至る。しかし、この分離は本質的なものでなく、主客両面は同質である。人間は根底において同一の意志を共有している。にもかかわらず、個体として生きる限り、欲望は絶えない。充足しても容易く退屈へと堕する。生とは、この含意において持続的な苦悩である。

この枠組みにおいて、「悪人」とは何かを考える。ショーペンハウエル曰く、悪人とは、意志が過剰に充溢し、その苦悩を緩和するために、他者の生きんとする意志を踏みにじる人間の精神である。他者の苦悩を利用し、それを相対的な安寧を享受することで、卑怯にも自らの苦痛軽減を画策する。このとき、他者は同一の意志の分有された仲間ではなく、単なる目的の為の手段の域を出ない。

この定義を照応し、エレン・イェーガーの実態把握を試みる。

彼は、作中で明言されているとおり、「自由への渇望」という、強烈な意志に突き動かされる。その内的衝動は激甚であり、「残酷な世界」そのものに対する否定として発露する。しかし同時に、彼は、個々の他者を蹂躙することに対して、強い良心の呵責を抱える。彼は他者の苦悩を自己の内部においても引き受ける。

この一点において、エレンは典型的な悪人とは画然と異なる。悪人が他者の痛みを外部化することで自己を安定させるのに対し、エレンは他者の痛みを内面化し、「引き裂かれた自己」を体現する。

さらに特異なのは、彼が後天的に有した特殊能力である。「始祖の巨人」は、本来は時間と空間によって分断されているはずの意志の連関を、部分的に横断するものである。すなわち、個体化の原理に亀裂を入れ、時空を掌握する才である。彼は、この能力を発露させつつも、望む結末は得られず、無惨にも不首尾に帰している。彼の失態は、自身が語るように、「たまたま特別な能力を有しただけのバカ」が招いた帰結として纏い立ち現れる。個体の枠を超越する特殊能力は、それに見合う器量と精神的容量を要求する。だが彼は、その条件を満たさないままに、意志の奔流へにて痛ましくも窒息した。

その結果、彼は自己と他者の境界を部分的に喪失しつつも、それを完全に超克することはできなかった。ゆえに、他者を踏みにじる行為は、そのまま自己の破壊として反響する。やはり彼は、踏みにじりながら、同時に引き裂かれている。

 

以上の論考において、エレン・イェーガーは古典的意味での悪人では、断じてない。

 

彼は、過剰な意志と不十分な認識のあいだに引き裂かれた悲劇の産物であり、個体の限界を超える力を与えられながら、その重圧を悲劇として発露させるに至った、倒錯的な英雄である。

なぜ、真面目な人ほど、ふざけ散らしてしまうのか?

葬式で悲しいのに笑う、という人は実在する。通常であれば、「悲痛と涙」という感情と行動のパッケージは連動している。

 

がしかし、悲しみを紛らわすために、涙ではなく笑いが発露する逆転現象は、現実的に発生する。受け入れがたい極度の緊張を伴う苦痛に対して、反射的に「笑い」で反応し、自身の精神の均衡を保とうとする。このとき生じているのは、感情の欠如ではなく、過剰である、。処理しきれない強度が、通常の経路を逸れて噴出しているにすぎない。


人間は、苦痛ゆえに「笑い」を催すことがある。しかし、そう説明されても、「なぜ笑うのか」という深大な疑問は、なお尽きない、。

 

その謎を解くべく、私は、「真面目に不真面目」という焦点語に希望を託す。

 

この一見キャッチーな定型文は、真面目という規範的態度と、不真面目という逸脱的な「遊び」という対立項が混ぜ合わさる様子を表す。「純粋な真面目さ、不真面目さ」同士の、境界侵犯____それは、単なる中間や折衷ではなく、両者が同時に成立したまま、互いの輪郭を侵食しあう状態を指す。「真面目と、不真面目」は、表裏一体である。ゆえに、純粋などちらかの成立条件や、二項対立の成立条件さえも超えて、逸脱と規範が同一の場で躍動する。


葬式での笑いは、その同時成立が露出した瞬間であり、真面目さが極限まで張り詰めた結果として、不真面目が反転的に噴き出したものに他ならない。


「葬式で笑う」という感情の錯綜を紐解くことが、「笑いとユーモア」の真髄の一端を示すことに繋がることだろう。

 

まず、ユーモアについて深堀する。

 

チャップリンは至言を吐いている。

 

「ユーモアはまた人間の生存意識を高め、健全な精神を支える。ユーモアがあればこそ、人生の有為転変も、比較的軽く乗り切れるのだ。それは、われわれに均衡感覚を与え、オーバーな厳粛さの底に潜む滑稽さを引き出してみせる」。


ここで重要なのは、ユーモアが現実を否認するのではなく、現実への関わり方そのものを変質させる点にある。人間は、悲劇に耐えるために、笑いを反射的に援用し、自身の苦境を笑い飛ばして生き延びる。

 

加えて、心理学者フランクルは、「死と霧」において、ユーモアとは距離を取るためのものである、と述べている。

 

「距離」とは逃避ではなく、同一化の解除であり、対象に呑み込まれないための最小限の余白である。


私見だが、真面目という絶対的な固着視点が恐ろしいものに焦点化された時の苦痛を、ユーモアという「遊び」で回避的に対応する生存戦略だ。

 

ユーモアは、「向き合わざるをえない人生の試練や苦悩」に対して、「遊び」を帰結させることにより注意の軌道をそらし、その苦痛から距離をとって自分を観る___という認識フレームの切り替え機能を持つ、と考える。いうならば、直視しながら逸らす技術だ。

 


つまり、真面目さが一点に凝集するほど、その反動としての「遊び」が必要とされるのである。

 

著述家イーストマンのユーモア論を照らし合わせると、「真面目とは、物事をある側面でのみ捉え、別方向・別軸での視点が無のままに世界を認識している思考様式・脳の情報状態」と解釈できる。

 

言うならば、ある物事に対する価値の言説を絶対視して、その価値以外のあらゆる価値への関心や意識を一時的に断絶する態度である。


それは集中であると同時に、他の可能性の切断でもある。反対に遊びとは、物事をある一定の側面からのみ見る態度とは画然と異なる。それは、普段は目を向けない別の側面からでも物を見る態度であり、ある物事に対する価値の言説をいったん保留して、それ以外の価値に注目することである。


いわば、固定された焦点を意図的にずらし、複数の見方を往復可能にする働きである。

 

そうして物事に対する通常の見方や価値からいったん距離を取り、別の見方や価値をそこに見出してみることが、「遊び」の内実である。

 

私見だが、真摯を貫く者ほど、真に遊び心を持っている。なぜなら、深く関わる者ほど、その重さに耐えるための逃がし道を必要とするからである。ゆえに、折に触れて、誰よりも児戯にも似た奔放さでふざけてしまう。事物に対する深い関与が熱暴走のように加速するので、断熱材としての「遊び」___すなわち「ふざけ」が希求されるのだ。


軽佻浮薄を拒むものこそが、時にもっとも節度を崩し、軽やかに逸脱する様は、柔らかな風刺を湛えている。そこでは、逸脱は堕落ではなく、むしろ均衡を回復するための運動として現れる。

 

反対に、半端な大衆は、均衡を壊すほど誠実にも張り切らず、壊れた感覚を笑いに変換するほど遊びがない。


詰まるところ、徹しきらない誠実と生真面目の精神こそ、今日も、世相の精彩を奪い、面白味を鈍らせ続けている。

自分を、漫画・アニメの主人公にすると、苦しみはエンタメになる。

ユーモアは幾つかの類型に分類される。そのうちの一つに、自己高揚的ユーモアがある。この様態においては、笑いは単なる情動結果ではなく、情動を生み出す働きを担うものとして位置づけられる。

 

一般に、人間が笑うのは「楽しいからである」。しかしながら、その逆、すなわち「笑うから楽しくなる」という観点もまた、一定の説得力を持つ。

 

たとえば、意図的に笑顔に近い表情を形成することによって、当人の主観的意図とは無関係に、肯定的な情動が誘発されるとする仮説が存在する。いわゆる顔面フィードバック仮説である。この見方に立つならば、笑いは結果であると同時に原因でもある。

 

この二つの説明は対立しているようでいて、実際には同一の現象を異なる方向から記述しているにすぎない。心的状態と身体的状態は相互に浸透しあい、一方が他方を規定する。ゆえに、「楽しいから笑う」と「笑うから楽しい」は、因果の順序の問題ではなく、むしろ一つの循環過程として把握されるべきである。

 

自己高揚的ユーモアとは、この循環を利用し、否定的状況に対して別様の意味づけを付与する営みである。嫌悪すべき出来事を笑い飛ばす態度、あるいは照れ笑いや苦笑といった現象は、その具体的な表れである。ここでは、現実の重圧そのものが消失するのではなく、それに対する関与の仕方が変容する。

 

この点を理解するうえで有効なのは、自己を物語として把握する視座である。人間は、完全ではないにせよ、「自らを対象化する能力」を有している。そのため、自己の経験を、あたかも一つの物語の展開として俯瞰的に眺めることが可能となる。そこにおいて、当事者としての苦境は、観客的視点において再配置され、しばしば滑稽なものとして現れる。私見だが、この視点の転位こそが、自己高揚的ユーモアの中核をなす。

 

さらに、笑いの起源をめぐる仮説の中には、緊張緩和や宥和のジェスチャーとしての側面を強調するものがある。この見解に従えば、苦境において笑いが生じることは逸脱ではなく、むしろ人間にとって基底的な反応であると解される。

 

また、自己高揚的ユーモアは、単に情動を調整するにとどまらず、行為への移行を促す要因ともなりうる。衝動は外部から与えられるものに限らず、内発的に生成される場合の方が、持続的な動機づけに資する。ユーモアは、その内発的衝動の放出経路として機能しうる。

 

加えて、人間は深い悲嘆に直面した際、反射的に笑いを伴うことがある。この現象は、笑いが快の表出であるにとどまらず、防衛的機能を担うものであることを示唆している。すなわち、自己高揚的ユーモアとは、苦痛の消去ではなく、それに対する関係性の書き換えなのである。

なぜ、面白い人は、他人を見下しているのか?

哲学史の系譜において、人間は、笑う側が他者を下位に位置づけ、自己の優越を確認するものとして説明がされる。

その意見は、古典的な笑い三代理論の一つ、「優越説」によって補強される。「ある人物への評価が、自己評価を安定させる素材として機能するときに、笑いを誘発させる」、とのことだ。

そこから時は経ち、、哲学者ベルクソンの系譜においてその説が補強された。誰かの行動や佇まいが、思いがけず「出来合いの枠」に当てはまったときに、「笑い」が生じる___。

ここでいう「出来合いの型」とは、反復可能性を基準として編成された再現性の領域である。

笑いとは、生成するものである。本来は、創造性を基軸とした領域であるゆえに、ベルクソンの論理には、言いしれない疑問符が残る。

しかし、これは、ニーチェが述べた、「評価することは、創造である」という等式を援用することで、クリアーに説明可能である。

評価は、「される客体」と「する主体」の二項対立により成立する。「笑い」という現場において、笑いを生成する主体は、創造者として高々と君臨する。

彼は、自らの創造性を用いて笑いを生成する。その際に希求されるのは、「出来合いの価値観を持つ客体」というラベルを、身近な他者に付与する、透徹した観察眼である。没個性的に他者を記号化し、再現可能性を持つ道具として位置づける、操作感の伴う思考感覚である。

そのうえで、その人物像に対する期待値を精密に操作し、わずかな逸脱を無意識的に挿入する。その際、時間差で立ち上がる悠長な計画性は介入せず、突発的なエネルギーの残滓が発火する。人間は、意図的に他人を笑わせるその一時、意識せずとも、自分を有利な立場に位置づける。

「他者は、再現の眼で待つ」という、ある種の冷徹な観察とも言い換えられるが、奇譚なくいえば、「見下し」と同質であろう。

笑いにおける創造性とは、再現の地帯に、創造の隕石が衝突した際の逸脱が、局所的に可視化された残滓である。ゆえに、創造だけで自己完結した「笑い」は存在しない。

笑いとは、創造主体と再現客体のコンビネーションが織りなす、共犯関係の様式美である。

格言をありがたがる人は、なぜ誤るのか?

「上智は教えられず、下愚は映らず。」

論語の格言だ。

しばしば一般の場合、次のように理解される。

 

賢明な者は自ら悟るゆえに他者の教えを必要とせず、反対に愚かな者は、いかなる教えを受けようとも理解に到達し得ない。

 

一見、鋭利な格言だが、この鋭さは同時に、あまりにも粗雑で人間理解の繊細さを欠くものあると断じざるを得ない。


問題は、この言葉が人間を「上智と下愚」という二項対立へと圧縮する欠点にある。人間の理解能力は、単線的に回収されるほど単純ではない。分野ごとに偏在し、断絶し、時に相互に無関係ですらある立体複合的なものとして現れる。

 

ある領域において透徹した判断を下す者が、別の領域では初学者以下の混乱や謬見に沈むことは、決して珍しくない。野球において優れた選球眼を持つ選手が、アカデミックな才能に秀でているとは限らない。にもかかわらず、人は自分の得意領域での成功を、思考能力全体の証明であるかのように扱いたがる。(ハロー効果)

 

そして、人間はしばしば「理解できない者」を見たとき、その原因を適性の欠如ではなく、人格的・全体的な愚かさへと短絡させる。

 

この誤まった分類こそが、謬見の種であり、いわゆる自己認識の歪みが作用している。人は自らの不得手に対しては判断能力を失いやすく、何が分かっていないのかすら分からない状態に陥る。

 

結果として、「教えても無駄な愚者」と「たまたま不適合な領域に置かれた者」との区別は、驚くほど容易に崩壊してしまう。


したがって、この格言が提示する「教えの無効性」は、厳密には対象の本質ではなく、観察者側の認識の粗さに依存している可能性が高い。

 

格言は確かに一面を突く。しかし、その一面はしばしば、例外の広がりを切り捨て、主語を拡大解釈することで成立している。


ゆえに、この言葉によって自己を測定し、過度に価値を引き下げる必要はない。そもそも、その評価軸自体が、能力の偏在や理解条件の差異を織り込まない粗い物差しにすぎないからである。


問題は、能力の高低ではなく、その能力がどの環境に配置されているかである。不適応な領域に置かれた能力は、いかに潜在的に有効であろうとも、無力として現れるほかない。逆に、適合する場においては、平凡と見なされていた資質が突如として機能し始める。能力に偏りのあるものが、不適応職種に就いてしまうことで、弊害を有むことは多いが、逆もしかりである。


この意味で、「短所そのものが長所に転じることはない」というある種の真理が、正確には「機能し得る条件が与えられていない個体」による不適応を改善の方向へ善導するものにつながるであろう。


さらに言えば、理解という現象それ自体もまた、外部からの教示によって直接的に生産されるものではない。それは多くの場合、然るべき時に内部成立するものであり、他者の言葉はその誘因となり得ても、決定因にはなり得ない。


ゆえに、人を教えによって「変えよう」とする善意の衝動は、しばしば過大評価という悪に転ずる。人は、理解し得る条件が整ったときにのみ理解する。そしてその条件の成立は、外部から完全に制御できるものではない。傑出したメンターは、弟子に教え諭すよりも、しばしば気づき促す。


結局のところ、この格言が切り捨てたものすなわち、理解の偏在、誤分類、条件依存性こそが、人間理解の核心に近い。

 

鋭い言葉とは、しばしば真理を突くのではなく、削ぎ落としすぎることによって成立している。ゆえに、多くのことわざは、むしろ条件発動式の真理だと捉えて置くことが健全な言語への向き合い方ではないだろうか。

誤解されすぎている哲学者。「理性は感情に流されないこと」という風潮はおかしい!

ショーペンハウエルは主著『意思と表象としての世界Ⅰ』において、カント倫理に対し明確な異議を呈している。

 

「カントはいささかの傾向性も一時的な感情の興奮をも伴わない純粋委に理性的かつ抽象的格率から行為が行われることを、道徳的な価値を行為がもつための条件とみなしている。」

(中公クラシックス 西尾幹二訳)

 

私は、この一文に違和感を持ち、批判的見解を抱かざるを得なかった。

 

しかしショーペンハウエルによれば、そもそも抽象的格率なるものは実行不可能に近い。なぜならそれは個人の性格としばしば齟齬をきたし、また性格そのものを完全に排除することなど不可能だからである。

 

その帰結として生じるのは不都合であり、彼はこれをもって、「道徳的ペダンテリー」と断じている。

 

少なくとも私の理解する範囲では、多くの思想家や研究者は、このショーペンハウエル的読解に連なる立場を取っている。しかし私見では、カントの意図は必ずしもそこに尽きない。

 

カントは道徳法則を教化的に提示しようとしたが、その過程で、道徳法則と情念との深い結びつき、そしてそれを説明すること自体が新たな誤解を生む可能性について、十分に自覚していなかったのではないか。

 

むしろショーペンハウエルの批判の核心は、カントが道徳を「内的対立の持続」としてではなく、安定した規則として提示した点に向けられているように見える。

 

ここで問題となるのは、道徳とは静的な規則なのか、それとも動的な緊張状態なのか、という点である。

 

私は、道徳の本質を「常に戦っている感覚」として捉えたい。カントは無条件に従うべき道徳法則を「定言命法」と名付けた。しかしこの概念は、広く誤解されている。カントが義務と理性を同一宇宙の次元に浮かべことが、その一因である。

 

一般に理性とは、感情に流されず筋道立てて判断する能力と理解される。しかしカントにおける理性は、それに尽きない。そこにはむしろ、「緊張を伴う精神の駆動」が含まれていると考えられる。

 

定言命法の実践において顕在化するのは、純粋理性の静的な働きではなく、理性と情動との対立運動そのものが、道徳的価値を生起させる。

 

傾向性は情動と結びつき、理性はそれに抗する。だが道徳法則への尊敬は理性に属しつつも、その実現は常に情動との緊張関係の中で遂行される。したがって、純粋な理性がそのまま道徳的実践として内在するという理解は、一種の幻想である。

 

多くの思想家がそうであるように、カントにおいてもまた、用語の定義は日常的理解と乖離している。ゆえに彼の倫理学を理解するには、概念の表層ではなく、その背後にある身体感覚的・体験的基盤にまで踏み込む必要がある。

 

カント自身、「義務における命令の崇高さや内在的な尊厳は、主観的な衝動が義務の命令を好まず、それに反抗すればするほど、それだけいっそう明白になる。」と述べている。

 

義務とは葛藤なき従順ではない。むしろ葛藤の極点においてこそ、その意味が露わになる。にもかかわらず、この視点は定言命法の説明において十分に共有されていない。結果として、道徳的行為の実体ではなく、形式のみが流通する。

 

私見では、道徳の核心は行為そのものではなく、「情念」にある。それは叡知的性格と起点としたある種の経験的性格との交錯から生じる「情動」である。

 

この点でヒュームと通底する部分もあるが、カント倫理の枠内で捉え直すならば、道徳とは理性の命令というよりも、理性と情念の持続的緊張として理解されるべきである。

叡知的性格は基底として存在し、それが時間を通じて経験的性格を形成し、道徳的自己対話を生み出す。ゆえに定言命法の説明は、「尊敬からの適法的行為」という形式的定義に留まるべきではない。その背後にある精神的緊張にまで視線を向ける必要がある。

 

この誤解は、定言命法に対して「品行方正であることの強制」という印象を与えるが、実態はまるで異なる。流れるような善行には、道徳的価値は宿らない。ためらいのない善は、緊張を欠くがゆえに崇高さを持たない。

 

道徳的価値は、行為の外形ではなく、その動機に内在する対立に宿る。したがって、単に善行を重ねることと、道徳的であることとは一致しない。この「常に戦っている感覚」は、しばしば理解されない。

 

外部からは、焦燥や不安としてしか認識されないことが多い。しかしそれは、内的対立を持続させる精神の駆動にほかならない。

 

ゆえに、「品行方正な生活態度」はそれほど道徳的ではないという読解が可能ではある。「義務が習慣化してもなお道徳的価値は失われない」という読みも、同時に成立してしまうとはいえ、哲学という学問の中核は、あくまで理論であるため、私的な情念や個人的に体験を一般的法則として拡張すること自体が難しく、この世界の「緊張状態」を道徳の要諦として一般化するには、一定の困難が付き纏うのかもしれない。

 

 

道徳的精神とは、このような緊張の持続としてのみ現れる。それは稀有であり、同時に外部からはほとんど認識されない。ゆえに「常に戦っている感覚」は誤解される。だがその誤解こそが、皮肉にも、この偉大な精神を逆説的に証明している。

 

 

【余談】

興味深いことに、この緊張は身体にも現れる。例えばFPSにおいて、卓越したリコイルコントロールを示すプレイヤーは、しばしば指先に微細な震えを抱えている。この震えは不安定さではなく、持続的緊張の現れであり、その結果として操作は高度に洗練される。同様に、握手の際に伝わるわずかな震えもまた、その人物が内的緊張を常態としていることを示唆する。