「イキる」とは、かっこいい自分を前景化させることを、あえて優先する行為である。
当然そこには、「ダサい」と評価される危険が伴う。自分を実際以上に大きく見せようとすれば、その演出そのものを見透かされ、
「必死だ」
「痛々しい」
「イキっている」
と笑われる可能性が生じるからだ。
そして、ダサいと思われることは、誰にとっても心地よいものではない。
しかし、ここで考えてみたい。
「ダサい」と評価されることは、本当に、ただ価値を失うことなのだろうか。そもそも「ダサい」とは、一つの価値判断である。ある人物を見て「ダサい」と感じるためには、その人物の振る舞いが、少なくとも評価者の注意を引き、何らかの感情や判断を生じさせていなければならない。この意味において、「ダサい人間」は「何の評価にも値しない人間」とは異なる。
もちろん、他者の注意を引けば、それだけで価値があるというわけではない。迷惑行為もまた人の注意を引くからだ。重要なのは、何によって注意を引いたのかである。私がここで肯定したいのは、自分自身の価値基準や理想像を外部へと打ち出した結果として生じる「ダサさ」である。
「俺はこういう人間でありたい」
「俺はこれがかっこいいと思う」
「俺は自分をこのように見せたい」
こうした自己像を内部に秘めているだけなら、他者から否定されることはない。表現されていない価値観は、攻撃されようがないからである。
反対に、それを外部へと表現した瞬間、他者による評価が始まる。「かっこいい」と思われるかもしれない。 「ダサい」と思われるかもしれない。 笑われるかもしれない。
つまり、自己を前景化させるとは、他者評価の俎上に自分自身を載せることである。
私は、この態度を一種の「賭け」だと考える。自分を小さく見せ、何者でもないふりをしていれば、大きく失敗する危険は少ない。「本気ではなかった」「別に興味はなかった」と後から撤退する余地も残されている。
しかし、「これが自分だ」と大きく打ち出した者には、その逃げ道がない。だからこそ、イキることには勇気が必要になる。ここでいう勇気とは、単に目立つ勇気ではない。自分の価値基準を他者に晒し、それが否定される可能性まで引き受ける勇気である。
したがって私は、ダサさを必ずしも「美的な失敗」としてだけ捉えない。場合によっては、ダサさとは、「個」が外部へ突出した際に支払う社会的コストなのである。
さらに興味深いのは、「笑われる者」と「笑う者」の関係である。一般には、笑う側が優位に立ち、笑われる側が劣位に立つように見える。
しかし、別の角度から眺めることもできる。
誰かを見て「あいつ、ダサいな」と思った瞬間、その人間はすでに自分の認知の中へ侵入している。
気になった。 評価した。 笑った。 批判した。 場合によっては、その人物について誰かに話した。
つまり、笑われる者は、少なくとも笑う者の認知や感情に何らかの変化を発生させている。もちろん、これだけで「笑われる側の方が立場が上だ」と結論することはできない。影響力と優位性は同一ではないからだ。しかし、少なくとも一つだけ言える。評価される者は、評価する者に対して完全に受動的な存在ではない。評価するという行為そのものが、評価対象によって誘発されているからである。
そう考えると、「ダサい」と笑われることは、必ずしも一方的な敗北ではない。自分を安全圏に置き、何も提示せず、他者の失敗だけを笑っている人間よりも、自分自身を評価対象として差し出した人間の方に、私は魅力を感じる。
なぜなら、後者だけが自分を賭けているからだ。
ここから、「イキる」という行為を自己形成の問題として考えてみたい。一般には、「自分に自信があるから堂々と振る舞う」と考えられている。
つまり、人格 → 行為という順序である。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
人間には、逆方向の形成もありうる。
堂々と振る舞う。 それを繰り返す。 周囲が「あいつは堂々としている」と反応する。 自分自身も「自分はこういう人間なのだ」と認識する。 その自己認識によって、さらに堂々と振る舞う。
すると、行為 → 反復 → フィードバック → 自己認識 → さらなる行為という循環が生じる。
最初は「演技」だったとしても、その演技を何十回、何百回と繰り返せば、「演じている自分」と「本当の自分」の境界は次第に曖昧になっていく。
つまり、「かっこいい人間だから、かっこよく振る舞う」のではなく、「かっこいい人間として振る舞い続けることで、かっこいい人間としての自己を形成する」という逆転がありうる。
社会心理学における自己知覚理論とも、この発想は接続できる。人間は必ずしも、完成された「本当の自分」を最初から知っているわけではない。
自分自身の行動を観察することによって、「自分はこういう人間なのだ」と理解することがある。
また、対象とする領域や理論的背景は異なるものの、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティも、「反復される行為によって、自然に見えるアイデンティティが成立する」という点では示唆的である。
もちろん、アイデンティティが反復だけで形成されるわけではない。同じ行為を繰り返していても、本人がそれをどう解釈するか、周囲がどう反応するか、所属する集団が何を価値あるものとしているかによって、その意味は変化する。
したがって、厳密な学術的公式ではなく思考上の概念式として表現するなら、アイデンティティ ≒ 行為の反復 × 強化 × 自己解釈 × 他者からの反応
くらいに考えるのが妥当だろう。
この観点から見るなら、「イキる」とは単なる虚勢ではなくなってくる。それは、理想とする自己を先取りして演じ、その反復によって現在の自己を理想へ近づけていく自己形成的実践にもなりうる。
では、謙遜する人間は、このような「自己演出」から自由なのだろうか。私はそうは思わない。
「私は馬鹿だから」 「自分なんて大したことないですよ」 「全然努力してないです」こうした言葉が、必ずしも本心からの自己卑下ではないことは珍しくない。
もちろん、すべての謙遜を「遠回しな自慢」と断定することはできない。本当に自己評価が低い場合もあれば、会話上の儀礼として発せられている場合もある。
しかし重要なのは、謙遜もまた自己賛美・自己提示の一形式になりうるということである。露骨に「俺はすごい」と言うことだけが自己演出なのではない。
「自分なんて大したことない」と言うことによって、「謙虚な自分」「自分の能力をひけらかさない自分」を呈示することもできる。
そう考えるなら、「イキる人間=自己を演出している」 「謙虚な人間=ありのままである」という単純な二分法は成立しない。
どちらも自分を何らかの形で他者へ提示している。だとすれば私は、自己演出そのものを否定するよりも、むしろ露骨に自己を大きく演出する態度を選びたい。
「俺はこうありたい」
「俺はこれをかっこいいと思っている」
そう宣言し、その結果として笑われるのであれば、そのダサさまで引き受ければいい。
それは少なくとも、自分の価値基準を隠しながら他者評価だけを行う態度より、自分自身を危険に晒している。
そして、この「個を外部へ打ち出す能力」は、これからますます価値を持つのではないかと、私は考えている。
現代では、膨大な情報が絶えず流入してくる。
何を買うべきか。 何を読むべきか。 どのように生きるべきか。 何を幸福と考えるべきか。
無数の価値観が同時に提示される結果、「何が正しいのか」を決定する絶対的な指標は見つけにくくなっている。さらにSNSでは、他者の成功や生活が絶えず可視化される。
その結果、「自分も何者かにならなければならない」という欲望だけが刺激されながら、「では何者になるべきなのか」という答えは与えられない。
いわば私たちは、人生についての情報だけは大量に知っているのに、自分自身の人生を決定する価値基準を持ちにくいという逆説的な状況に置かれている。
だからこそ、強烈な価値基準を持つ人間には需要が生まれる。
「私はこれが正しいと思う」
「こう生きるべきだ」
「これがかっこいい」
「私はこの道を行く」
そう断言できる人物は、価値判断に疲れた人間に、一つの座標軸を与えることができる。
もちろん、それがカリスマになることもあれば、独善になることもある。したがって、アイデンティティが強ければ無条件に善いというわけではない。
しかし、他者に価値基準を提示するためには、少なくとも自分自身の価値基準を外部へ打ち出す能力が必要である。
そして、その能力には必然的に「イキる素質」が含まれている。
なぜなら、自分の価値基準を強く提示するとは、
「そんなのお前だけだ」
「痛い」
「ダサい」
と言われる危険を引き受けながら、それでも「私はこう思う」と言い続けることだからだ。
だから私は、「ダサいと思われる危険」を冒してまで自分を大きく演出すること自体を肯定したい。ダサくてなんぼである。むしろ、ダサい方がかっこいい。ただし、それは「ダサければ何でもいい」という意味ではない。
私が肯定するダサさとは、自分自身の価値を外部へ打ち出した結果として生じるダサさである。
笑われないように生きることはできる。
目立たず、断言せず、本気にならず、何かを愛してもそれを冷笑で包み、「別にそこまで好きじゃない」と逃げ道を作っておけばいい。そうすれば傷つく危険は減る。
しかし同時に、自分という存在が外部へ突出する機会も減っていく。
ならば私は、笑われる方を選びたい。
大きく見せようとして、大きく見せすぎて、失敗して、「イキっている」と笑われてもいい。
なぜなら、そのダサさは、自分が自分自身を外部へ賭けた痕跡だからである。
ダサさとは、ときに「個」が世界へ突出したときに生じる摩擦熱なのだ。