弱化ロープ

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なぜ、「イキってる人」の方がカッコいいのか?

「イキる」とは、かっこいい自分を前景化させることを、あえて優先する行為である。

 

当然そこには、「ダサい」と評価される危険が伴う。自分を実際以上に大きく見せようとすれば、その演出そのものを見透かされ、

 

「必死だ」

 

「痛々しい」

 

「イキっている」

 

と笑われる可能性が生じるからだ。

そして、ダサいと思われることは、誰にとっても心地よいものではない。

 

しかし、ここで考えてみたい。

 

「ダサい」と評価されることは、本当に、ただ価値を失うことなのだろうか。そもそも「ダサい」とは、一つの価値判断である。ある人物を見て「ダサい」と感じるためには、その人物の振る舞いが、少なくとも評価者の注意を引き、何らかの感情や判断を生じさせていなければならない。この意味において、「ダサい人間」は「何の評価にも値しない人間」とは異なる。

 

もちろん、他者の注意を引けば、それだけで価値があるというわけではない。迷惑行為もまた人の注意を引くからだ。重要なのは、何によって注意を引いたのかである。私がここで肯定したいのは、自分自身の価値基準や理想像を外部へと打ち出した結果として生じる「ダサさ」である。

 

「俺はこういう人間でありたい」

「俺はこれがかっこいいと思う」

「俺は自分をこのように見せたい」

 

こうした自己像を内部に秘めているだけなら、他者から否定されることはない。表現されていない価値観は、攻撃されようがないからである。

 

反対に、それを外部へと表現した瞬間、他者による評価が始まる。「かっこいい」と思われるかもしれない。 「ダサい」と思われるかもしれない。 笑われるかもしれない。

 

つまり、自己を前景化させるとは、他者評価の俎上に自分自身を載せることである。

 

私は、この態度を一種の「賭け」だと考える。自分を小さく見せ、何者でもないふりをしていれば、大きく失敗する危険は少ない。「本気ではなかった」「別に興味はなかった」と後から撤退する余地も残されている。

 

しかし、「これが自分だ」と大きく打ち出した者には、その逃げ道がない。だからこそ、イキることには勇気が必要になる。ここでいう勇気とは、単に目立つ勇気ではない。自分の価値基準を他者に晒し、それが否定される可能性まで引き受ける勇気である。

 

したがって私は、ダサさを必ずしも「美的な失敗」としてだけ捉えない。場合によっては、ダサさとは、「個」が外部へ突出した際に支払う社会的コストなのである。

 
さらに興味深いのは、「笑われる者」と「笑う者」の関係である。一般には、笑う側が優位に立ち、笑われる側が劣位に立つように見える。

しかし、別の角度から眺めることもできる。

誰かを見て「あいつ、ダサいな」と思った瞬間、その人間はすでに自分の認知の中へ侵入している。

 

気になった。 評価した。 笑った。 批判した。 場合によっては、その人物について誰かに話した。

 

 

つまり、笑われる者は、少なくとも笑う者の認知や感情に何らかの変化を発生させている。もちろん、これだけで「笑われる側の方が立場が上だ」と結論することはできない。影響力と優位性は同一ではないからだ。しかし、少なくとも一つだけ言える。評価される者は、評価する者に対して完全に受動的な存在ではない。評価するという行為そのものが、評価対象によって誘発されているからである。

 

そう考えると、「ダサい」と笑われることは、必ずしも一方的な敗北ではない。自分を安全圏に置き、何も提示せず、他者の失敗だけを笑っている人間よりも、自分自身を評価対象として差し出した人間の方に、私は魅力を感じる。

 

なぜなら、後者だけが自分を賭けているからだ。

 
ここから、「イキる」という行為を自己形成の問題として考えてみたい。一般には、「自分に自信があるから堂々と振る舞う」と考えられている。

つまり、人格 → 行為という順序である。

しかし、本当にそれだけなのだろうか。

 

人間には、逆方向の形成もありうる。

堂々と振る舞う。 それを繰り返す。 周囲が「あいつは堂々としている」と反応する。 自分自身も「自分はこういう人間なのだ」と認識する。 その自己認識によって、さらに堂々と振る舞う。

 

すると、行為 → 反復 → フィードバック → 自己認識 → さらなる行為という循環が生じる。

最初は「演技」だったとしても、その演技を何十回、何百回と繰り返せば、「演じている自分」と「本当の自分」の境界は次第に曖昧になっていく。

 

つまり、「かっこいい人間だから、かっこよく振る舞う」のではなく、「かっこいい人間として振る舞い続けることで、かっこいい人間としての自己を形成する」という逆転がありうる。

 

社会心理学における自己知覚理論とも、この発想は接続できる。人間は必ずしも、完成された「本当の自分」を最初から知っているわけではない。

 

自分自身の行動を観察することによって、「自分はこういう人間なのだ」と理解することがある。

また、対象とする領域や理論的背景は異なるものの、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティも、「反復される行為によって、自然に見えるアイデンティティが成立する」という点では示唆的である。

 

もちろん、アイデンティティが反復だけで形成されるわけではない。同じ行為を繰り返していても、本人がそれをどう解釈するか、周囲がどう反応するか、所属する集団が何を価値あるものとしているかによって、その意味は変化する。

 

したがって、厳密な学術的公式ではなく思考上の概念式として表現するなら、アイデンティティ ≒ 行為の反復 × 強化 × 自己解釈 × 他者からの反応

くらいに考えるのが妥当だろう。

 

この観点から見るなら、「イキる」とは単なる虚勢ではなくなってくる。それは、理想とする自己を先取りして演じ、その反復によって現在の自己を理想へ近づけていく自己形成的実践にもなりうる。

 
では、謙遜する人間は、このような「自己演出」から自由なのだろうか。私はそうは思わない。

「私は馬鹿だから」 「自分なんて大したことないですよ」 「全然努力してないです」こうした言葉が、必ずしも本心からの自己卑下ではないことは珍しくない。

 

もちろん、すべての謙遜を「遠回しな自慢」と断定することはできない。本当に自己評価が低い場合もあれば、会話上の儀礼として発せられている場合もある。

しかし重要なのは、謙遜もまた自己賛美・自己提示の一形式になりうるということである。露骨に「俺はすごい」と言うことだけが自己演出なのではない。

 

「自分なんて大したことない」と言うことによって、「謙虚な自分」「自分の能力をひけらかさない自分」を呈示することもできる。

 

そう考えるなら、「イキる人間=自己を演出している」 「謙虚な人間=ありのままである」という単純な二分法は成立しない。

 

どちらも自分を何らかの形で他者へ提示している。だとすれば私は、自己演出そのものを否定するよりも、むしろ露骨に自己を大きく演出する態度を選びたい。

 

「俺はこうありたい」

「俺はこれをかっこいいと思っている」

 

そう宣言し、その結果として笑われるのであれば、そのダサさまで引き受ければいい。

それは少なくとも、自分の価値基準を隠しながら他者評価だけを行う態度より、自分自身を危険に晒している。

 
そして、この「個を外部へ打ち出す能力」は、これからますます価値を持つのではないかと、私は考えている。

 

現代では、膨大な情報が絶えず流入してくる。

何を買うべきか。 何を読むべきか。 どのように生きるべきか。 何を幸福と考えるべきか。

 

無数の価値観が同時に提示される結果、「何が正しいのか」を決定する絶対的な指標は見つけにくくなっている。さらにSNSでは、他者の成功や生活が絶えず可視化される。

 

その結果、「自分も何者かにならなければならない」という欲望だけが刺激されながら、「では何者になるべきなのか」という答えは与えられない。

 

いわば私たちは、人生についての情報だけは大量に知っているのに、自分自身の人生を決定する価値基準を持ちにくいという逆説的な状況に置かれている。

 

だからこそ、強烈な価値基準を持つ人間には需要が生まれる。

 

「私はこれが正しいと思う」

「こう生きるべきだ」

「これがかっこいい」

「私はこの道を行く」

 

そう断言できる人物は、価値判断に疲れた人間に、一つの座標軸を与えることができる。

 

もちろん、それがカリスマになることもあれば、独善になることもある。したがって、アイデンティティが強ければ無条件に善いというわけではない。

 

しかし、他者に価値基準を提示するためには、少なくとも自分自身の価値基準を外部へ打ち出す能力が必要である。

 

そして、その能力には必然的に「イキる素質」が含まれている。

 

なぜなら、自分の価値基準を強く提示するとは、

 

「そんなのお前だけだ」

「痛い」

「ダサい」

 

と言われる危険を引き受けながら、それでも「私はこう思う」と言い続けることだからだ。

 

だから私は、「ダサいと思われる危険」を冒してまで自分を大きく演出すること自体を肯定したい。ダサくてなんぼである。むしろ、ダサい方がかっこいい。ただし、それは「ダサければ何でもいい」という意味ではない。

 

私が肯定するダサさとは、自分自身の価値を外部へ打ち出した結果として生じるダサさである。

笑われないように生きることはできる。

 

目立たず、断言せず、本気にならず、何かを愛してもそれを冷笑で包み、「別にそこまで好きじゃない」と逃げ道を作っておけばいい。そうすれば傷つく危険は減る。

 

しかし同時に、自分という存在が外部へ突出する機会も減っていく。

ならば私は、笑われる方を選びたい。

 

大きく見せようとして、大きく見せすぎて、失敗して、「イキっている」と笑われてもいい。

 

なぜなら、そのダサさは、自分が自分自身を外部へ賭けた痕跡だからである。

 

ダサさとは、ときに「個」が世界へ突出したときに生じる摩擦熱なのだ。

読書するだけでは、「好奇心」は伸びず、自分の頭で考えていることにもならない。

読書そのものは、思考の能動性を保証しない。むしろ、多くの人は、他人の理路を受け身でなぞるだけで、「思考した気」に陥っている。
当然、私も他人事ではない。

 

かつて、心理学者ウィリアム・ジェームズは、「”思考とは何かという問い”」の急所を貫く、見事な格言を残している。


「ほとんどの人は、考えているつもりで、先入観を組み合わせているだけにすぎない」。

というものだ。

 

それは、既存の言葉を組み合わせ、目の前の事象に、断定的な解釈を与える行為である。それは、容易に「理解した」という仮象を生む。先入観を反射的に援用することで、目の前の現象を「処理されたもの」としてカテゴライズすることである。そこに、「真の思考」は生まれない。

 

問題は、その先入観を「確かな根拠」だと思い込み「考えた気になっている」ことに、本人が自覚しないことである。その満足感が「知的謙虚さ」をそぎ落とし、「思考停止」を強化させる。

 

本当の意味で考えるということは、「自分の中の前提を疑う」ことである。これが、「思考の柔軟性の維持」に大いに役に立つ思考法である。一般に知能の高い人ほど、自分の考えを補強するために高い知的能力を使ってしまい、思い込みや先入観にかえって囚われやすい。たとえその考えが、一面の真理を突いていたとしても、それは「考える行為から生み出されたもの」とは画然と異なる。

 

たとえば、ある男が、「女性は男性より感情的だ」という考えを持っていたとする。先入観を並べ替える思考なら、「この女性は感情的だった」「SNSでも女性は感情的に見える」「恋愛でもそうだった」という経験(先入観)をかき集めて、「やっぱり女性は感情的だ」となるだろう。

 

しかし、本当の意味で考えようとすると、

 

「そもそも感情的とは何を意味している?」
「怒りは感情に含めているのか?」
「男性の怒りは、感情ではなく合理的な反応として数えていないか?」
「自分は、感情的な女性だけを優先的に記憶していないか?」
「反例はどのくらい存在する?」
「男女差ではなく社会的役割の差では?」
「自分の経験した数十人から数十億人について一般化して捉えることは妥当か?」

 

といったように、自分自身の認識までも疑い始めるだろう。この思考過程が、「考えているつもり」を脱却し、「真に考える」という行為へと接続される。

 

この問題は、現代の認知心理学でいう「確証バイアス」とも非常に近い。人間は、自分の既存の信念と一致する情報を重視し、一致しない情報を軽視する傾向がある。それに対し、多角的に妥当性を検証していく思考法は、そのバイアスを壊す実効がある。それは、「自分の思考はまだまだだ」という「知的謙虚さ」によって加速し、固着した先入観がとき解された「柔軟で実りのある思考」に、我々を導く。

 

人間は、自らの思考に疑いをもち、「発展途上の自分」を認識するほどに、「学習効率」・「経験への開放性」が高まり、「凝り固まった先入観」を解する効果的なアプローチとなる。

 

こうして、「しなやかなマインドセット」は形成されていくのである。

その「しなやかなマインドセット」は、好奇心によって、より高まりをみせる。

 

では、どのように好奇心を高めるのか?

「知性の罠。なぜ、インテリが愚行を犯すのか」という書籍で、好奇心を伸ばす方法について説明されていたので、引用する。

 

「好奇心を高める一番シンプルな方法の一つを紹介しよう。それは、何かを学ぶ時に、意識して自律的になることだ。たとえば、学習するテーマについて、自分が既に知っていることを書き出し、それから本当に答えを知りたいと思う疑問を書き出していく。目的は知識の欠落部分を明らかにすることだ。解明すべき謎を生み出すと好奇心が高まることが分かっている。」

 

目的的に思考することこそが、真の思考であるという本稿の理論を、効果的に実践するための「具体的な方法」である。ぜひ、実践してみて欲しい。

ビックファイブ

📊 ビッグファイブ・コアステータス(120点満点)
🧠 1. 経験への開放性:87 / 120(高い)
知的なアイデアの操作や豊かなファンタジー、芸術を愛する反面、日常のルーティンを壊すような変化は好まない知性派です。
知性:19 (高い)
想像力:17 (高い)
芸術的興味:15 (高い)
リベラリズム:15 (高い)
感情性:12 (平均的)
冒険心:9 (低い)
🛡️ 2. 外向性:70 / 120(平均的)
親しい人には非常に情が厚くエネルギッシュですが、大勢の集団の中にいると脳が過負荷を起こして疲弊してしまうタイプです。
興奮探求:16 (高い)
友好性:15 (高い)
活動レベル:15 (高い)
自己主張:10 (低い)
社交性:9 (低い)
陽気さ:5 (低い)
🤝 3. 協調性:70 / 120(平均的)
困っている人を放っておけない深い優しさと誠実さを持つ一方で、他人を容易に信用せず、自分の意志を曲げない頑固さがあります。
利他主義:16 (高い)
道徳性:15 (高い)
共感:15 (高い)
信頼:10 (低い)
協力:9 (低い)
謙虚さ:5 (低い)
🧘 4. 神経症傾向:95 / 120(極めて高い)
すべてのネガティブ感情センサーが常に敏感に作動しており、心の中に激しい葛藤と脆さを抱えやすい超高感度メンタルです。
不安:18 (高い)
怒り:17 (高い)
抑うつ:17 (高い)
衝動性:16 (高い)
脆弱性:14 (高い)
自意識:13 (高い)
💤 5. 誠実性:65 / 120(平均的〜やや低め)
与えられたルールや責任、部屋の秩序は完璧に守りますが、自分自身の「意志の力」や「自信」が極端に不足しています。
義務感:18 (高い)
秩序性:17 (高い)
達成努力:11 (低い)
慎重さ:8 (低い)
自己規律:7 (低い)
自己効力感:4 (低い)

なぜ、ネット民は、「否定したがる人」しかいないのか?

インターネットは、「否定する文化」こそが主流である。

 

そこでは、ユーザーの「個」は、希薄化され、魅力を失う。恒常的に「匿名性の魔力」が渦巻いているからだ。「非現実の他者」という解釈のレンズが通過することで、正常な「個」としての価値は踏み鳴らされる。匿名という制度は、「何者か」であると同時に、「何者でもない」状態を許容する。故に、各々のユーザーが「交換可能な資源」としてしか、価値の指標を持たない。

 

インターネット空間は、はじめから人間理解の場ではない。血の通った人間が、流用可能な「情報単位」として還元される場である。

 

現代のインターネットは、普段は鬱屈とした抑制の只中で過ごす弱者にとって、格好の「ルサンチマン発散装置」となった。誰か特定の人間を、「否定してやろう」「茶化してやろう」と画策し、密かに「攻撃の機会」を狙うユーザーは数多い。インターネットは、現実的な責任感覚から、著しく隔たれた空間である。匿名性とは、「自我が薄いゆえに、自我で人を殴れる状況」をたやすく許容する。

 

その問題に対する監視の眼はゆるい。今この瞬間も、インターネット上では、「いじめ同然の行為」が横行している。

 

その現象は、「Discord」においても例外ではない。品行方正に振る舞うユーザーですら、その多くは、「軽蔑」や「心にもない褒め言葉」を、たやすく差し向ける。公式に「認め合い」が推奨される場でも、他のユーザーを「認めたくない」と密かに思い、利害関係を計算しながら立ち回るユーザーは数多い。

 

対して、敵対する立場の者同士が、次第に馴れ合いの場へと傾く場面も多い。その惨状は、単なる「居心地のいい居場所」というお題目を据えた、無機質な馴れ合いの場として結実する。その場では、固定化された似た者同士で群がり、「思いやりという暴力装置」で「個」を圧殺し、お茶を濁し続ける「ぬるま湯」の関係性のみが構築される。誰でも参加可能のコミュニティは、必然的に玉石混交にならざるを得ず、大抵の場合は、機能不全の一途を辿る。それは、否定文化のもとに狂い咲いた、生き生きとした対話を禁圧する、インターネット空間の宿痾である。

 

なぜ、映画で泣くのか。

「泣ける映画」というフレーズに、違和感を禁じ得ない。自分事して悲しみに直面する主体でれば、「泣くための映画」という全体は成立しない。人は他人事であれ、不幸に直面すれば、感情を対処する認知スタイルに切り替わる。それならば、人の感情を味わう余裕は残らない。それのみならず、映画を泣くために見るという行為自体が、まさに感情的犠牲を強いる行為である。したがって、映画で泣くという行為は、他人の不幸を娯楽物として味わう余裕を持つ、薄情な主体により成立する。それには、悲しみという欲望を向けられる客体と、それを味わう主体との間に、心理的距離が無限に隔てている。共感しているから泣くのではなく、他人というフィルターを介在させる。ゆえに、その共感の涙は脆くも安い。この現象には、責任回避性が密接に関係している。人間は、自分事として出来事を捉える刹那____「責任」という認知コストを耐え難く消耗させる。ゆえに、直撃する悲しみとは反対物の、距離の隔てた高みからの安い共感は、「悲しみ」という感情を、「責任を伴わない娯楽物」として安全な形で消費することで生じる。ゆえに、その後には、消費された情動のカタルシスだけが堆く積み上がり、葛藤も、自らを立脚点とする「実存的な問い」も残らない。いわば、映画の不幸には、無責任な大衆にとって標本化された悲しみとしての実効がある。反対に、道徳的な者ほど、他人の不幸を「完結済みの不幸」としては処理しない。責任ある主体としての張り詰めた緊張を保持し続ける。故に、「未完の不幸」として「同情」する判断すらも、あえて保留にすることができる。他人を不幸を、自らの問題として引き受け、保持する限りにおいて、人間は、感情処理よりも、認知的に他人の不幸を捉える認知スタイルが継続される。故に、「他人を理解しようとする形で」、その不幸に関与し続ける。この心理において鋭く作用し続けるものは、認知的共感である。世の中の多くの人は、認知的共感よりも情動的共感が優位の状態で生きている。映画鑑賞においても例外ではない。情動的共感とは、「他人の感情状態が、自分の感情状態として自動的に再現される心理的働きを指す。映画で泣く人の心理状態は、情動的共感であり、その実現においては、映画の中での不幸な出来事は、「すでに完結されされ、理解されているもの」として、表象される。故に、映画鑑賞で流される涙は、いわば、「再現の涙」であり、責任を負う主体からは切り離された「無責任な涙」として結晶化される。認知的共感は、むしろ、悲しみに対処するために、たちどころに理性を働かせている状態である。故に、感情の処理は、後回しにされ、その場の落涙には至らない。それは、「情動の麻痺」とも呼べるような高貴さな趣をたたえている。その態度は、悲しみの標本を自らの人格と重ね、「全体」として引き受けようとする行為主体として立ち現れる。

責任の帰属を主体に直結させる精神との違いは、意外な形で潜んでいる。「身近な人が亡くなった時」や、「大きな病気になったとき」などに、近しい人は意外と冷静であるという話は多い。また、「いじめ被害者」が自殺したあとの葬式で、生前に散々な加害を加えたものが泣き崩れ、「本気で救おうとしていた親しい人」ほど、涙を流さずただ「その場で打ち震える」という話はよく聞く。人間は、情動の麻痺により、現実的な困難に対処する。過度の緊張状態は、現実の直視を避け、情動の逃し道を必要とする。その思考回路を必要としない者、それすなわち、映画で泣き崩れる態度は、他人を不幸を自分事として捉える責任から切断される形で成立する。

 

 

顔を見つめることは、殺人的である。

殺人とは、「同化しようにも同化できない」という現象の一形態である。


大哲学者エマニュエル・レヴィナスは、「意味付与される意識対象は、同化されたもの」と見なし、「同」という主要概念を打ち出した。

「同」は、他者を同化する力である。しかし、「他者」とは絶対的に「他」である。故に、所有としての「同」が結実することはない。

彼の「同」は、「自我」「意識」「理性」を、理解の枠組みの中に回収する「自己主体のあり方」それ自体を指し、その範囲は、「私の働きが加わる全て」を示す。

ゆえに「同」は、行為主体としての発想であり、受動性の「客体」とは対極をなす。故に、「狩る主体と、狩られる客体」という二項対立において、必然的に、狩る者としての思想が「同」と暴力的な関係を結ぶ。

この発想は、サイコパス(先天的な反社会性パーソナリティ障害)の実態と、奇妙な形で通底する。彼らは、「周囲の他者が全て敵に見える」という思想を持ち、「搾取される前に、自分から搾取しなくてはならない」という攻撃性を内本質的に備えている。

ゆえに、そのような主体にとって他者とは、単に理解される対象ではなく、「制圧されるべき対象」として立ち現れる。

「敵を制圧する」という発想は、必然的に、「所有欲」と結びつく。それは、敵の存在に、意味を付与して掌握したいという衝動である。

故に、「ある対象」に意味を付与する営みは、能動的な行為主体によって作用する。その主体が、「意味を付与する限り」において、その対象となる客体は、「私物化されたもの」としての様相を帯びる。

故に、サイコパスの所有欲は、敵に見える他者を、「自分の理解可能で安全な所有物へ還元したい」という傾向性と、一体不可分である。

実際、サイコパスは、他者をゲームのNPCのように、オブジェクト化して認識する傾向性を持つ。それは、単なる他者への興味関心の欠如というより、敵を安全な形で処理しようとする認識フレーム故の思考様式であろう。

そして、彼らがもつ、その所有欲は、「視線」によって増強され、明確な像を結ぶ。彼らは、折りに触れて「他者の顔を凝視」する。相手に失礼な場面でも、穴が開くほど見つめる傾向を持つ。

レヴィナスは、「顔が課す要求を鎮めたい」という充足せず増大していく願望は、行き付く果てには、「殺人願望」に帰結すると述べている。本稿でいうところの「顔の課す要求」は、「喰らうべに他者の存在感」だと解釈される。

殺人の「願望」は、他者の「顔貌」を、自分の内的宇宙内で滅却したいという願望であり、殺人衝動と通底するものだ。

「同化しようにもできない他者は厄介だ。顔の要求を鎮めるという切望を充すためには、もはやこの世から葬り去るしかない。」

そして、本能が理性を超え、獣と化したサイコパスは、殺人を犯す。しかし、抑制機能の強さ故に生き残るサイコパスは、この世に潜み、他者の日常をしたたかに、侵食する。

サイコパスは、他人への共感・興味関心は基本的に希薄である。ゆえに、彼から映じる他者は、敵であると同時に利用可能なオブジェクトである。

彼にとって他者とは..........意のままに操作し、安全形へ還元し、快適に生存するための生贄である。

真理とは、言葉にできないことを言葉にすることである。

大詩人ゲーテは、格言を残している。

 

「理解していないものは、所有しているとは言えない。」

(ゲーテ格言集 新潮文庫)

 

ここでいう理解とは、ある対象を内的形成へと再配置することで成る、と解釈する。では、内的精神は、いかにして各個人の資産となり得るのか。

 

そもそも自然本性の中に、共有という概念はない。全ての物質は、自然本来の所有物としての存在である。ゆえに、「理解」という精神性が、物質性を超越して結実されなければ、所有と呼ぶには値しない。

 

 

例えるならば、書物への向き合い方がこれに該当する。物質的に書物を入手することは万人に容易い。だが、それだけでは、精神面・人格面への目立った効能は見込めない。つまるところその要諦は、書物内容そのものを血肉にすること___活用可能な財産へと昇華することである。

 

つまるところ、物質を用いて、理解可能性を導くことが、知の所有へと人を導く。

 

ここで、ニーチェの至言を記す。

「しかし、あなたがたには、真理への意思がある。この真理への意志とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意志である。あなたがたは、あなたがたの感覚で掴んだものを究極まで思考しなければならないのだ。」(ツァラトゥストラはこう語った。 氷上英廣 訳 岩波文庫)

 

ゲーテが対象の形成を語るとき、静的な所有としての完成を見る。対してニーチェのいう「真理への意志」は、この生を極限まで押し広げ、未完のまま肯定し続ける衝動として立ち現れる。

 

「真理への意志」とは、つまるところ、言葉にできない感覚印象を、絶対感覚として捉え、極限まで研ぎ澄ます過程である。

 

それは、世界を「固定された客観的実体」の鋳型として捉え、理解可能な形式へと鋳造しようとする衝動である。人の数だけ開けたその感覚印象は、その者の持つ全ての真理を包摂している。その心は真理を絶対的な確度で知覚しているが、それのみでは充分に輪郭が定まらない。

 

心は、思考なしでは舞い降りず、心の内奥で拾い上げ、段階的に形作るものだ。その「思考の絶対法則」を五感に染み渡る情報状態として結実させるところに、真理という精神が確度を伴い立ち現れる。

 

こうして真理は、一つの個体を跳出し、自然の共有物たる物質をも超え、「心の極点」にて、高々と輪舞する。これこそが真理という血肉の流動体であり、揺れ続けながらも宿存する絶対的な精神資産である。

 

一番つまらない集団の特徴。

愚問とは何か。相手の「個を無効化するために設計された」全ての質問である。会話とは、相互の個の世界を断片的に引き出して、共有する営みである。ゆえに、個を削ぐ質問は、会話を活性を低下する方向へと、断続なく作用し続ける。流動性を欠く会話を望むものは少ない。誰もが、会話に熱を望んでいる。だがしかし、会話における個は、折りに触れて、衝突を誘発する。その危険性は、集団における「個の異質性」を露呈させる。群れの秩序を壊す要因は、一つの個に収束する。その非同期的な揺れが、集団を取り巻く千篇一律の風潮の中では、危険なノイズとして作用する。そもそも個を無に帰す風潮は、その集団の構成員を、最大公約数的人格へと平準化する装置である。没個性に堕ちた集団は、個の輪郭を過剰に削ぎ落とし、結果的に人畜無害な集いを形成する。個を重んずる集団であれば、その風潮は機能しない。個が活性化し、愚問に基づく「平板な事実確認」は脇に置きやられる。無害であることより、存在の密度を引き出し、起伏に富んだ会話の活性を優先させる。個が踊るように相互作用し、各々の人格に熱が帯びる。会話および質問とは、相手の個を露出させる原機能を持つ。愚問は、その機能を反転させ、個を消去する作用を持つ。愚問が愚問たる所以は、この機能に沈殿している。愚問は、相手の人格を交換可能な資源として、避けがたく扱うことになる。本来ならば、情報交換により活性化されるはずの会話は、「相手が無害である」という信号を交換するだけの、平板な儀式に堕する。彼らに悪意はない。「全員が快適であるべき」という過剰な善意が跋扈し、結果として、「全ての人が不快にならない」という退屈な風潮が醸成される。押し付けがましい善意が、個の面白みを迫害して、無の秩序性だけが肥大化した無起伏群が結晶化する。ただし、この集団の構図の批判自体もまた、個を抽象的な機能へと還元している危険を免れない。個の露出は常に過剰であり、過剰であるがゆえに、別種の衝突や疲弊を招く。ゆえに問題は単純な「個の擁護」ではなく、個が露出しうる限界と、その緊張の延長線上にある。

 

 

 

 

なぜ、女は「女優」なのか?

演技とは、主体的に客体化を試みる行為である。


女は、受動の性であり、求められるところの性である。女が主体的に男を操ろうとする場面でも、主体性に先立って客対性として魅力を発揮する。

 

仮に、女が主体的に関係を主導しようとしても、一貫した主体性ははじめから頓挫している。

 

女は「求められること」を通じてしか関係に入れない。よって主導しようとしても、その回路自体が他者の欲望を経由する。

 

たとえ、女が男を「その気にさせた」としても、求められるところの性を起点の誘惑である以上、受動性を起点とした「仮初の主体性」に過ぎない。ゆえに、女性に通底する「求められるところの」客体性は、主体的性行動においても根底から消え去ることはない。

 

女の行為は「見られること」を前提に成立する。「見られること」は他者の視線を内面化することである。自己に内在化された他者は、自分の行為を先取りして規定する。ゆえに主体は、純粋に自分発としては成立しない。その客体性を前提にする限り、それは純粋な主体としては成立しない。

 

よって、主体性は、女という立脚点を経由する限りにおいて、必然的に演技が介入したものになる。

 

客体とは、見られるところ・対象とされるところの主体であり、主客両面は表裏一体である。よって、女の性は必然的に、演技性なしに語ることはできない。

 

「演技というものは、主体的に客体化を試みる行為」であり、自他の主客両面をあえて逆転させるところに、その実効が宿る。能動的に見られるという受動的な視点を提供するものだ。

 

演技と根深い関係をもつサスペンスは、宙吊りという性質をもつ。観る者の心を宙吊りにし、見せることと隠すことのあいだに持続的な緊張を生み出す。いわばサスペンスとは、開示と隠匿のリズムを操作する技法であり、この点において演技と通底する。見られることを前提とする視点......すなわち客体性が、そこでは不可欠となる。

 

主体という観点からすると、自分自身は自分自身でしかない。しかし演技のモデルは、すでに何者かになっている。何者かとは、ステータスであり、客観的な指標である。客体性のパラメーターとしてのキャラであり、そのもの自体の主体性とは異なる。

 

見られることを前提に、性は他者のまなざしを内面化する。主体は自発ではなく、想定された視線への応答として立ち現れる。「見せる、そして隠す」、という配分が緊張を生み、その持続がサスペンスとなる。参照される像は他者のための指標にすぎず、主体はそれを引き受けて自らを客体として差し出し続ける。

 

ゆえに、女は、女優である。

なぜ、語りは、成果を殺すのか?

人間は、「語り」への衝動に甘んるほど、成果と呼びうるものは結晶化されない。

 

本稿における「語り」とは、成果物の作成に先行することなく、外部からの承認を仮初の目的として放出される言語活動を指す。すなわちそれは、制作に付随する副次行為とは異なり、制作の代替として選択される、安価な充足を指す。

 

「語り」は、創作意欲を段階的に減衰させる作用を持つ。ゆえに、創作者は、無為な発言を展開するべきではない。「語り」は、「制作」に向かう精神エネルギーを消費する。語りに費やされた精神は、無関係の外部へ集散され、しばしば軌道から外れる。

 

実際に着手し、試行錯誤するエネルギーが、本来あるべき成果物に対しては焦点化されず、「説明」「議論」「自己正当化」に密集する。それら、外在化された思考の断片は、すべて重要度の低いものとして処理され、思考の片隅へ追いやられる。

 

ついには、安直な「誉め言葉」により、疑似的な達成感に酔いしれ、自己満足へとさらに傾倒し、「語りの衝動」が再加速する。

 

「語り」とは、このようにして、制作の過程を横取りする形式で成立する。ゆえに、未完の創作と同様の、「逃避の様相」を帯びている。

 

「小規模の承認」は、それが連結性を帯びるほどに、語りの中毒化が進行し、「地道な試行錯誤」が軽視される。ゆえに、単一的な「承認サイクル」という渦地へといざなわれ、長期的達成への修練は、おざなりにされうる。このサイクルにおいては、成果物それ自体ではなく、「語りうる状態にあること」自体が価値として誤認される。

 

かくして、制作は常に未遂のまま凍結され、「語り」の残滓だけが増殖する。

 

そのうえ、安易な語りは、思考の純度を混濁させる。普段の思考過程すらも他人の評価で汚れ、思考整理が行き届かない。ゆえに、いっけん成果物が実ろうとも、満足いくものは作られず、あべこべな完成形として帰結する。他者視点が雑多に混入され、「他人の言語を自分の言語だと誤読した創作者」は、悲惨の一言に尽きる。

 

この錯覚は、創作者にとって致命的である。なぜなら、未完の段階で言語化された思考は、その瞬間に「既知のもの」として固定され、再び未知へと潜行する器量を失うからである。本来であれば深化しうるはずの萌芽は、「語り」で閉ざされ、拡張されない。

 

ゆえに、創造者にとって必要な素養は、「あえて語らない勇気」である。それは、沈黙の美徳などという、消極的態度を超克する。「語り」を中途段階のままで止める覚悟は、断言を保留にし、「未完のものを未完のまま保持し続ける」という、持続的緊張への能動的な確約である。

 

「語り」によって解消されるはずの不全感をあえて引き受け、その不快と対峙し続ける精神のみ、「制作」は臨界点へいざなわれる。

 

1を聞いて10を知ること。

洞察という言葉は、ある現象を眺め、別の解釈を付与する行為であり、その内部に推論を含んでいる。すなわち、ある事物から受ける感覚印象を、同じ根をもつ別の印象へと結びつけて解釈する知的営為である。

 

それは、情報の背景を知識として格納するために、欠かせない思考法である。さながら、知者は、少ない情報から、たちどころに理解の範囲を展開する。その所業は、「洞察」の働きとして立ち現れる。

 

あらゆる洞察が、創造的を生むわけではい。されは、既存のものを観照し、そのうちに含まれている連関を捉える行いである。ゆえに、知を等身大で捉えながらも、その内包を拡大させる。学者による偉大な研究も、洞察あっての成果である。

 

人間は誰しも、大なり小なり推論している。例えば、皮肉を解するとき、言外の意味を推論している。その推論は、基本的には、抽象的概念による反省から生まれるのではなく、感覚的印象の結びつきとして生まれる。いわば突発的に現れるが、それは無秩序な偶発ではなく、あらかじめ備わった連関把握の資質によって支えられている。

 

感覚印象を概念として引き上げる思考は、推論というより、哲学に近い。推論は、哲学において必要な過程だが、それ自体が哲学ではない。あくまで推論とは、印象のあいだに関係を見出し、それを判断として取り出す働きである。

 

洞察において、瞬間的に知が拡大する現象は、1の中に含まれる10を能動的に取り出す資質が関係している。それは、汎用的に知へと奉仕するものであり、人類にとって本質的貢献となる思考法である。

「無知の知」をどう解釈すれば、無知ではないと言えるのか?

哲学者コンディアックは、至言を吐いている。

 

「人は、無知であるほどに、判断したい欲望を抑えられないものである。」(論理学ー考える技術の初歩ー)

 

この一節は、意見すれば控えめな観察に過ぎない。しかし、その内実は、ソクラテスの「無知の知」に深く通底している。しかし、思想の中核として誇示されるわけではなく、あくまで文脈に浸透する形で表れている。

 

コンディアックは、文脈を超えて、この無知の知へとメスを切り込む。当人は当然のごとく、無知の知の実践者である。ゆえに、意図して記したものかは不明である。だが、しかし、私には、この慎ましやかな提示の仕方が、かえって露骨なまでの「至言」として映じてしまう。

 

 

それでは、その骨組みを考察する。

 

まず、人間の精神は、事物を正しく捉えられないほど、「分かったもの」として捉え、仮構の落とし穴へいざなう。「無知を充分に把握する」だけの反省を欠けば、無知であり続けるのが人間である。一般に、人は、一応の判断や解釈を加えた物事ほど、「到達した真理」として、処理される傾向性を持つからだ。

 

故に、対照として、本物の知者であれば、「無知の知」を実践する。それは、「分かったつもり」という、知の敵たる傾向性への対応である。「無知の自覚」は、知・真理追及の出発点となるという認識フレームである。

 

それは、あらゆる知的活動において、抜本的な効力を放つ。無知を検閲し、その中で知を追求するには、即席の「一言コメント」で安易に判断し、理解・把握を終えたものとする態度を、能動的に疑わなければならない。すなわち、無知へ堕する精神を、迅速に戒することが求められる。そうしてようやく、哲学実践者としての態度が、輪郭を帯びる。

 

反対に、大衆的態度は、真に理解すること、それ自体を欲しない。理解に到達したと見なしうる地点へ、速やかに着地したいにすぎない。思考とは本来、未決のまま持続する緊張状態であり、その負荷は精神にとって恒常的に耐え難い。

 

ゆえに人は、判断を保留し続けることよりも、いかに粗雑であれ、一応の解釈を付与し、事態を処理済みのものとして収めることを合理的に選択する。

 

「分かったつもり」という状態、それは理解の到達ではなく、理解完了と書かれた仮初の案内板が固定化されたに過ぎない。そこには、本来ならば「思考の停止」と刻印されるはずが、「思考の完了」と誤記入されている。

 

さらに言えば、この「分かったつもり」は、単なる誤謬にとどまらない。それは、不確実性に伴う不安を即席的に処理し、自己を安定させるための機能として作用する。人は真理を欲するのではない。真理に到達したと感じうる安定を欲するのである。

 

ゆえに、一度目の判断や解釈は、その妥当性を再び問われることなく、「処理済み」の標識を付されて保存される。かくして、思考は深化することなく堆積し、未検証の確信のみが増殖する。

 

したがって、「無知の知」とは、この安易な安定へと収斂する傾向に抗し、理解を終えたと感じたその瞬間にこそ、それを疑い、再び未決の状態へと差し戻すという、持続的な反省の営為である。

 

 

我々は、「肉体」を人質に取られている

大哲学者ショーペンハウアー曰く、世界の本質は「生きんとする盲目的な意志」と、その「表象」である。この意志は、究極的な目的を欠いた無限の努力であり、「あらゆる存在はその意志の客観化」に過ぎない。

 

我々が認識する世界は「表象」であり、それはこの意志が、時間と空間という認識形式のもとで分裂し、個体として立ち現れたものである。

 

ここで、彼の主要概念「個体化の原理」が含意に富み、本論の中核を担う。これは、本来同一であるはずの意志が、時間と空間という枠組みによって分割され、数多の個体として現象するというものである。この原理によって自他は分離され、他者は自己とは異なる存在として知覚されるに至る。

 

しかし、この分離は本質的なものではなく、主客は同質である。人間は根底において同一の意志を共有している。それにもかかわらず、個体として生きる限り欲望は絶えない。一時的に充足されたとしても、やがて容易く退屈へと転落する。生とは、この意味において持続的な苦悩である。

 

この哲理を踏まえ、性行為について考察する。「性衝動」はエゴイズムである。欲動は自我に執拗に絡みつき、個体化の原理に固着する。肉体と精神は「生」を肯定し、生きんとする意志に無我夢中で奉仕する。個体化の原理とエゴイズムは連関している。この定義に照応するならば、性行為とは、二つの異なる個体が性衝動によって一つの生きんとする意志へと結実する「境界侵犯行為」である。

 

個体化の原理は、性において一時的に破綻する装置に他ならない。その上で「性」とは、意志が「個体化という形式を、裏切る瞬間」であると、あえて解釈を再編成させる。

 

他者の身体を貫通する刹那、個体化の原理は蹂躙され、一時的に解体される。そして、意志の盲目的な「種の衝動」という野放図は、一時的に男性主体によって掌握される。女体に宿る胎児は、意志の個体が原理を超えて混然一体となった客体である。

 

ニーチェ曰く、女性は、「自らに宿る胎児」を通して、肉体の自己愛を充足させる。女の肉体へのいみじい欠乏感・複雑な反省的自我は、肉体の一部となる胎児を通して自己肯定的解釈に転じる。意思の反省という抽象的認識が、肉体を通して具象的に感得され、充足感に満たされる。

 

受胎における、意志の解釈は、受胎にのみ留まらない。人間の一般的行為である「食事」も同様である。それは、生きんとする意志の直接の客体たる身体へ、栄養を通じて奉仕する行為である。ゆえに多食もまた、性行為と同様に、生きんとする意志の通奏低音たる「エロス」への力動的な奉仕として接続され、その充足は、即時的に感得される。

 

したがって、意志の否定とは、生きようとする行為の否定であり、命への執着と欲望が生む我執による苦悩の禁圧である。自我を希薄化することは、すなわち意志を否定し、命への執着を希薄化させる実効がある。この観点において、禁圧されるべき欲は、主として性欲である。

 

淫欲を薄め、性的行動を徹底して、「禁圧する主体」こそが、意志の呪縛から解放される可能性を持ちうる。ゆえに、生(性)を肯定し欲望する限り、意志の奴隷状態から解放されるその日は、終ぞ訪れはしない。

 

 

※本論には一つ致命的な疑問が残る。ニーチェとショーペンハウアーの意志の解釈は、対立軸にある。前者は「力への意志」として肯定され、後者は「禁欲」によって否定される。したがって本論考は、両者の哲理を混合し再編したものであり、拭い難い疑義と反駁の余地を残している。一つの解釈の候補として、ご拝読いただければ、幸甚の至である。

格闘ゲームが「楽しい」は、半分”ウソ”である。

格闘ゲームとは、「楽しさ」と「苦しみ」が混然一体であるという、「固有の原理」に貫かれた、際立った異質性を放つゲームジャンルである。

コンボが決まった瞬間。勝ち星を上げた瞬間。成長を実感した瞬間。

 

別種のゲームであれば、局所的成功においても、一定の達成感が喚起される。しかし、格闘ゲームはそうではない。勝ち星を上げるための、局所的成功の達成感は、取るに足らないものとして報酬系から退けられる。

 

一つ一つの細かい成功体験の裏には、「ここで慢心していけない」「今の成功体験は大したことはない」といったストイックな思考感情によって、素早くあしらわれる。「達成」は即座に「無価値」へと還元され、自己否定感を帯びた、向上心へのカンフル剤として邁進する。技が思うように決まろうとも、勝つためのファストな戦略思考の戦線に、悠長な達成感が介入する隙間はない。

 

格闘ゲームにおいて、達成が達成として安住することはない。その理由は単純であり、かつ決定的である。それは、このジャンルが徹頭徹尾、「対人」であるという一点に尽きる。対人であることは、あらゆる成果が、他者との比較の中でしか意味を持たないということである。すなわち、そこでは絶対的な基準は剥奪され、自己完結的な充足は原理的に成立しない。どれほど精緻なコンボを決めようと、それが通用する相手の水準によって、その価値は容易に変動する。

 

ある局面での成功は、より高度な対戦環境においては、単なる初歩的所作へと格下げされる。この可変性こそが、達成を不安定化させる。加えて、格闘ゲームは、失敗体験のストレスはかえって大きい。格闘ゲームは、断片的達成の累積を前提とする行為を、いかに有効打とするかが至上命題である。ゆえに、細かい失敗によるフラストレーションは他のゲームを比して、いっそう顕著である。

 

他のゲームでも、失敗は一定の負荷を伴うが、何より、成功に「直接的な快の充足」が付随する。代表例の「ドラゴンクエスト」では、レベルアップ時に必ず放たれる、あの定式化された祝祭的音響と共に、プレイヤーは直接的で夾雑物のない「快」を勝ち得る。もちろん、自分の求めるレベルに満たないことはあるが、確かなゲーム内での成長を実感でき、過去の自分との差を可視化して成長を実感する。いわば、一時的な休息としての「純粋な快」が得られるのだ。

 

その快は、格闘ゲームでは決して得られない。格闘ゲーマーは、「休息のない相対評価の渦中」に永遠と放り投げられ、戦いを強いられるアスリートである。ドラゴンクエストが、「自己完結的な絶対的快楽性」に対し、格闘ゲームは、「未完の他者依存的快楽」となりやすい。格闘ゲーマーという文脈において、「今、ここ」に愉楽が凝縮された、児戯の遊びにも似たゲーム体験は、断じて成立し得ない。

 

とはいえ、格闘ゲームは、常に感じれる、「一定の楽しさ」の閾値は担保されている。どんなに楽しいゲームでも、煩わしい要素はあるが、格闘ゲームはその労を強いる設計が、短期間の集中の連鎖として処理される。これは、利得と損失の両面性を絶妙なバランスで内包する。故に、極端な苦痛を伴う負担は感じにくい。

 

「苦痛・徒労感」と、「快感・手軽さ」の対立項が混然一体となったゲーム設計。。。。それは、快苦両面を余すところなく同時体験できる、格闘ゲームプレイヤーの特権である。

 

エレン・イェーガーは悪人なのか?

エレン・イェーガーは悪人なのか。

 

この問いは、「地鳴らし」の実行犯という観点により、自明に解答される。すなわち、「大量虐殺を実行した主体は悪である」、という極めて常識的な判決である。

 

しかし、「悪人とは何か」なる問いを掘り進めるならば、この判断は必ずしも自明ではない。私見だが、この問題には、ショーペンハウエルの主著『意志と表象としての世界』が示唆に富む。

 

彼によれば、世界の本質は「生きんとする盲目的な意志」と、その「表象」である。この意志は究極的な目的を欠いた無限の努力であり、「あらゆる存在はその意志の客観化」に過ぎない。我々が認識する世界は「表象」であり、それはこの意志が、時間と空間という認識形式のもとで分裂化され、個体として立ち現れる。

ここで、彼の主要概念「個体化の原理」が含意に富み、主題の中核を担う。これは、本来は同一であるはずの意志が、時間と空間という枠組みによって分割され、数多の個体として現象する、というものだ。この原理によって、自他は分離され、他者は自己とは異なる存在として知覚に至る。しかし、この分離は本質的なものでなく、主客両面は同質である。人間は根底において同一の意志を共有している。にもかかわらず、個体として生きる限り、欲望は絶えない。充足しても容易く退屈へと堕する。生とは、この含意において持続的な苦悩である。

この枠組みにおいて、「悪人」とは何かを考える。ショーペンハウエル曰く、悪人とは、意志が過剰に充溢し、その苦悩を緩和するために、他者の生きんとする意志を踏みにじる人間の精神である。他者の苦悩を利用し、それを相対的な安寧を享受することで、卑怯にも自らの苦痛軽減を画策する。このとき、他者は同一の意志の分有された仲間ではなく、単なる目的の為の手段の域を出ない。

この定義を照応し、エレン・イェーガーの実態把握を試みる。

彼は、作中で明言されているとおり、「自由への渇望」という、強烈な意志に突き動かされる。その内的衝動は激甚であり、「残酷な世界」そのものに対する否定として発露する。しかし同時に、彼は、個々の他者を蹂躙することに対して、強い良心の呵責を抱える。彼は他者の苦悩を自己の内部においても引き受ける。

この一点において、エレンは典型的な悪人とは画然と異なる。悪人が他者の痛みを外部化することで自己を安定させるのに対し、エレンは他者の痛みを内面化し、「引き裂かれた自己」を体現する。

さらに特異なのは、彼が後天的に有した特殊能力である。「始祖の巨人」は、本来は時間と空間によって分断されているはずの意志の連関を、部分的に横断するものである。すなわち、個体化の原理に亀裂を入れ、時空を掌握する才である。彼は、この能力を発露させつつも、望む結末は得られず、無惨にも不首尾に帰している。彼の失態は、自身が語るように、「たまたま特別な能力を有しただけのバカ」が招いた帰結として纏い立ち現れる。個体の枠を超越する特殊能力は、それに見合う器量と精神的容量を要求する。だが彼は、その条件を満たさないままに、意志の奔流へにて痛ましくも窒息した。

その結果、彼は自己と他者の境界を部分的に喪失しつつも、それを完全に超克することはできなかった。ゆえに、他者を踏みにじる行為は、そのまま自己の破壊として反響する。やはり彼は、踏みにじりながら、同時に引き裂かれている。

 

以上の論考において、エレン・イェーガーは古典的意味での悪人では、断じてない。

 

彼は、過剰な意志と不十分な認識のあいだに引き裂かれた悲劇の産物であり、個体の限界を超える力を与えられながら、その重圧を悲劇として発露させるに至った、倒錯的な英雄である。