
倫理に殉ずる者が、己をも灼く焔として言葉を放つとき、それが誹謗中傷と映るなら──その逆説は、凡庸な精神には計り知れぬ謎であろう。
しかるに、それは彼が不誠実だからでは断じてない。むしろその逆であり、この世において、己の正義にこれほど純粋で、これほど美しく愚かで、これほど破滅的に忠実な存在は他にあるまい。
彼にとって、他者の不得は「見逃す」という行為の対象にさえなりえない。それは単なる選択肢ではなく、意識の底より不可能として排除されているのだ。彼らの精神構造においては、「衝突をまぬがれた沈黙」こそが最も深い罪悪であり、赦しは美徳ではなく逃避であり、無関心は堕落そのものである。
されど世には、保護色に身を染め、善き市民の仮面を貼りつけた者どもが、安全で、無害で、無難であることを「善」と思い込み、毒にも薬にもならぬ言葉を垂れ流しては、互いの「鈍麻」を讃え合っている。
彼らにとって、誠実とは礼儀を弁えることに過ぎず、真実とは「場を濁さぬ範囲でのみ」語られるべき装飾にすぎない。
愛なき優しさが溢れ、怒りなき道徳が蔓延し、空虚な語彙だけが奇麗事として増殖してゆく。ああ、何ひとつ賭けることなく、何者も傷つけぬことを誇る者たちよ。その無謬の微笑こそ、最も深く他者の心を切り刻む“倫理なき沈黙”ではないか。
されど、世界は道徳の清浄を保持するにはあまりにも穢れており、正しさは滑稽にすり減らされ、忠告は蔑まれ、怒りは戯れとして嘲られる。こうして、正義と現実とのあいだに生じた深淵は、次第に彼の精神を蝕み、その心奥には、義憤と挫折と哀惜と、ほとんど名状しがたい毒性を湛えた、沈黙する火山のような激情が蓄積されてゆく。
それなるは、善意の残滓と、破壊の欲動とが、ねじれ合い、背中合わせに存在する倫理の歪曲であり、その悲しみは怒りの形をとって結晶化し、ついには、言語という鋭利な刃として現出する。
それは快の刃ではなく、「己をも斬り裂く倫理の凶器」であり、正義が届かぬことへの絶望に濡れ、自罰という美学を帯びた破壊的な叫びである。
あの誹謗に見紛う、悲しき発露の間際____彼は、ひと呼吸の逡巡を持つ。その迷いは懺悔ではない。それは「正義が届かぬなら、いっそ砕いてしまえ」という一種の諦念を孕んだ悲劇的潔癖である。
彼の指先が震え、押された送信の一打において、人間の持ちうるあらゆる背律的統合(パラドキシカル)と、すべての真摯さが凝縮される。
無論、人々は、その行為を下劣な暴言と断じ、人格の汚点として記録する。誰も、そこにある孤高の苦悶や、正義の断末魔を見ようとはしない。
そのうえ、さらに残酷な真実は、誠実を超えた者がその心、痛ましめられ、無関心な者が賞賛されるという世俗の構造そのものである。見て見ぬふりをし、波風を立てず、善き市民という仮面を平然と被りつづける者たちは、道徳的責任からも、良心の葛藤・闘争からも自由である。
彼らは、品行方正という世間の色調に胡座をかき、倫理という戦場に立つことすらない。
その欺瞞は、幼き倫理を育むはずの場__「学校」にすら、平然と浸透している。教科書に記される道徳とは、誰にも刺さらぬように、あらかじめ毒抜きされた「清潔な善意」の見本であり、絶えず人を腐らせる「善意の嘘」を、あたかも美徳のように肯定・流布する遠隔洗脳メディアである。それに抗う者を「未熟」と嘲り、従順なる者を「成熟」と賞賛する教壇。すなわち、義務教育という制度そのものが、すでに偽善の温床となっている。
真理に根差した道徳とは、血に塗れ、矛盾に満ち、美しく破綻したものであろう。
愛と怒りが同根であり、赦しと破壊が一体であり、優しさが凶器と化すような、可笑しみすら漂うほどの危険な高貴さこそが、真の倫理というべきものではないか。
誠実というものは、それが真摯であればあるほど、社会という鈍重なる機構の中では、もはや病理としてしか位置づけられぬ。
やがて、その烈しき倫理は、狂気の外套を無理やりに纏わされ、正しき者ほど深い孤独の淵に沈められるのだ。
だがそれこそが、現代という舞台における倫理の悲劇であり、誠実という名の精神が、この時代において果たすべき、最後の腹切り——それは、救済ではなく、沈黙への献身であり、涅槃にいたる倫理のマゾヒズムに他ならない。
かつて、大哲学者バタイユは告げた──
「もっとも聖なるものは、もっとも穢れた場所に宿る」。
倫理もまた、崩壊の淵においてのみ、その聖性を帯びるものだ。